昭憲皇太后
明治天皇の后(きさき)。明治天皇と共に明治神宮の御祭神として祀られている。父は江戸幕府の従一位左大臣、一条忠香。
「皇太后」は先代天皇の皇后に付される称号。祭神として祀られる際に「昭憲皇太后」とされたため、基本的に「昭憲皇后」とは呼ばれない。
昭憲皇太后は、日本赤十字社やお茶の水女子大学(の前身である東京女子師範学校)の設立に深く関わるなど、明治時代における社会福祉事業や女子教育の発展・振興に多大な影響をもたらしたお方であると評される。また書や和歌に秀で、生涯に数多くの歌を詠まれた。
1912年に明治天皇が崩御した翌々年の1914年に、後を追うように昭憲皇太后も崩御。2014年には昭憲皇太后の崩御後100年を記念する行事が催された。
関連サイト:
昭憲皇太后様について - 明治神宮
しょうけん‐こうたいごう〔セウケンクワウタイゴウ〕【昭憲皇太后】
昭憲皇太后
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1849年5月9日〈嘉永2年4月17日〉 - 1914年〈大正3年〉4月9日)は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は (まさこ)、のちに (はるこ)。お印は若葉。旧名は (いちじょう はるこ)。
(しょうけんこうたいごう、注釈
- ^ 一条忠香の正室は伏見宮順子女王である。なお、民子は一条家の典医・新畑大膳種成の娘であった
- ^ 実父は醍醐忠順。輝姫。忠香は養父。
- ^ 実父は今出川公久。忠香は養父。
- ^ 同告示によると、追号の「昭憲(しょうけん)」は諡法に則り、「明憲昭徳」を意味する。昭は「昭著(アキラカニアラワス)」であり、「君子以昭明徳」(『易経』)、「於昭于天」(『詩経』)、「百姓昭明」(『尚書』)などの例がある。憲は諡法に「博聞多記曰憲」、また『礼記・内則』に「憲、法其徳行也」とある。
- ^ 企業物価指数(戦前基準指数)で試算した場合、1912年(明治45年)の1万円は2021年(令和3年)の1,138万5,448円になる。計算式は次のとおり(なお、日銀ウェブサイトを参照[5])。
735.5(令和3年企業物価指数)÷0.646(明治45年企業物価指数)=1,138.5448(倍)
したがって
100,000(円)×1,138.5448(倍)=113,854,480(円)
出典
- ^ 中宮職廃止により、皇后宮職設置
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』吉川弘文館、2010年、154頁。
- ^ a b 外国人のみた明治日本の近代化と欧化一お雇い式部官オットマール・フォン・モールの場合SZIPPL Richard、 南山大学 ヨーロッパ研修センター報. 2002. (8), 89-106
- ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』の228頁
- ^ “昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?”. 教えて!にちぎん. 日本銀行. 2022年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月14日閲覧。
- ^ 杉山淳一 (2017年2月4日). “鉄道トリビア 第391回 山手線に2日間だけ開設された旅客駅があった”. マイナビニュース. 2023年11月8日閲覧。
- ^ 山口幸洋『大正女官、宮中語り』河西秀哉監修、創元社、2022年、88頁。ISBN 978-4-422-20167-2。
- ^ NHK BSプレミアム「時空超越ドラマ&ドキュメント美子伝説」
- ^ 『福島民報』1966年1月17日付朝刊テレビ欄。
昭憲皇太后
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