小川一真とは? わかりやすく解説

小川一真(おがわいっしん・かづま1860-1929)

 写真師写真業写真出版業先覚者
 武蔵国忍藩(現埼玉県行田市藩士原田左衛門二男として生まれ行田藩小川太郎養子となり、名を一眞改める。明治6年(1873)、旧藩松平忠敬給費東京有馬学校に入り土木工学を、同13年築地のバラー学校で英語を学ぶ。
 同15年有馬学校時代に興味抱いた写真術極めよう渡米し最新写真技術コロタイプ印刷術などを習得し明治17年帰国同年東京飯田町に玉潤(写真)館を開業最新技術写真撮影をする写真館として評判をとる。明治20年内務省委嘱アメリカ トッド博士らの日蝕観測団に参加し皆既日食コロナ撮影を行う。翌21年には、枢密院顧問官図書頭九鬼隆一同行し奈良古寺に遺された仏像など文化財調査撮影を行うなど、日本における写真界の発展尽力した
 同22年には、小川写真製版所を開設しコロタイプ印刷カラー印刷実用化取り組む
 地図測量関連では、陸軍参謀本部陸地測量部大本営写真班(小倉倹司ら)の嘱託写真師でもあったことから、各地行われた陸軍演習写真帖」(陸地測量部撮影)のほか、「日清戦争写真石版」(明治28年)、「日露戦役写真帖第1ー3」(明治37・38年)の発行を行うなど、日本における写真界の発展尽力した

画像


小川一真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/23 14:36 UTC 版)

小川一真
1913年頃
本名 原田朝之助[1]
国籍 日本
出身地 日本 武蔵国埼玉郡忍藩領内
生年月日 1860年9月29日
没年月日 (1929-09-06) 1929年9月6日(68歳没)
テンプレートを表示

小川 一眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま、万延元年8月15日1860年9月29日) - 昭和4年(1929年9月6日[2])は、日本写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951年)は実弟。

略歴

幕末の万延元年(1860年)、武蔵国埼玉郡忍藩(現・埼玉県行田市)藩士の原田庄左衛門(梅逸や西念と号した)の次男として生まれる[2]。3歳で同藩士の小川家の養子となる。忍藩の藩校「培根堂」で学ぶ[3]

明治6年(1873年)に旧藩主松平忠敬から学費の支給を受けて、有馬頼咸が開設した東京の報国学舎(有馬学校)へ入学して土木工学を学んだ[2][3][4]。一眞は同校在学中に写真術に興味を持ったという[2]。明治8年(1875年)に同校を卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学び、群馬県富岡町で自身の写真館を開いた[3]。同地では古沢福吉と親交を深め、彼の支援を受けている[3]。明治13年(1880年)に築地大学校(バラ学校)へ入学して英語を習得し[5] 、翌明治14年(1881年)には横浜外国人居留地で警察の通詞を勤めるほどとなった[2]

明治15年(1882年)、前年の第2回内国勧業博覧会に出品した作品が評価されないことに衝撃を受けた一眞は[3]、更に進んだ写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンへと渡り、同地のハウスティング写真館に住み込んで働きつつ、明治16年(1883年)、欧州からもたらされた当時の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得して明治17年(1884年)1月に帰国した[2]。帰国した一眞は東京飯田町(現在の飯田橋)に写真館玉潤館を開業して評判を得、企業家としても活動した[2]。一眞の起ち上げた写真乾板製造会社は失敗に終わったが、明治18年(1885年)にはカーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている[2]

一眞の写真技術の評判は明治政府の耳目を集め、明治20年(1887年)、内務省の委嘱により皆既日食コロナ撮影を行い、明治21年(1888年)には図書頭である九鬼隆一による近畿地方での古美術文化財調査に帯同し、文化財の調査撮影を行った[2]。これをきっかけにフェノロサ日光の美術史調査にも帯同し、岡倉天心らと国華社を設立して明治22年(1889年)にはコロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』の創刊へと繋がった[2]。また、一眞は同年に休刊していた雑誌『写真新報』を編集人兼発行人として復刊して刊行を重ねた[2]。一眞は数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清日露戦争明治天皇大喪の礼濃尾地震アイヌ民族の生活調査など数多くの題材を写真に収めた[2]。明治43年(1910年)、帝室技芸員として顕彰され、東京写真師組合を組織し同初代会長に任ぜられた[6][7]

小川一真写真店(小川写真製版所)」 小川一真(1860 - 1929)はボストンで写真術を修業し、明治18年(1885)、飯田町に写真館「玉潤館」を開業すると、東京有数の写真家として知られるようになった。21年(1888)、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を開始。翌年、京橋区日吉町に小川写真製版所を開き、27年(1894)、写真銅板の製版、印刷に着手した。43年(1910)、帝室技芸員を拝命。写真の産業化、写真文化の発展に大きな足跡を残した。写真撮影に使われた用具の一部が描かれている。「小川一真写真店は当今写真界の冠にして東京名物の一也」と記載あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「小川一真写真店(小川写真製版所)」より抜粋[8]

年譜

  • 万延元年8月15日(1860年9月29日):武蔵国忍藩(現・埼玉県行田市)藩士原田庄左衛門の二男として生まれる。
  • 文久3年(1863年):武蔵国行田藩士小川石太郎の養子となり、一眞(かずま)と名を改める。
  • 明治6年(1873年):上京して英語学を修める。
  • 明治8年(1875年):写真師を志して、群馬県の豊岡町の吉原秀雄に師事して湿版式写真術を会得する。
  • 明治10年(1877年):群馬県富岡に「小川写真館」を開く。
  • 明治14年(1881年):写真館を廃業して、横浜の下岡太郎次郎(下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学ぶ。
  • 明治15年(1882年):横浜外国人居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ海軍(米国海軍)軍艦に水兵として乗船し、単身で渡米留学をする。米国では旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法コロタイプなどの当時最新の写真術を学ぶ。
  • 明治17年(1884年):帰国。帰国後すぐ、東京府飯田待ちに「玉潤会」を設立し、写真師として活躍。
  • 明治22年(1889年):日本で初となるコロタイプ印刷工場として小川写真製版所を京橋区日吉町(現・銀座8丁目6番周辺)に設立[6][9]
  • 明治24年(1891年):凌雲閣(浅草12階)開催の「東京百美人」コンテストのため写真を撮影。
  • 明治26-27年(1893-1894年):再び渡米して、網目凸版の印刷機を持ち帰った。第二次世界大戦前の日本の新聞に掲載された写真のほとんどは、この網目凸版によるもの[10]
  • 一真は、二人の妻に先立たれていたが、明治36年(1903年)6月2日、12歳年下で板垣退助伯爵三女の婉(えん)と再婚。
  • 明治40(1907年):「日本乾板株式会社」を設立、神奈川県中郡大野村(現・平塚市南原)に敷地面積1万5千に及ぶ土地を購入して工場を設ける(のちオリエンタル写真工業株式会社に譲渡)。
  • 明治43年(1910年)10月18日:帝室技芸員に任命される[11]
  • 大正2年(1913年):小川写真化学研究所を創設[9]
  • 昭和4年(1929年)9月6日:神奈川県平塚市で死去[12]享年70。墓所は青山霊園(1イ-20-14)。

作品

小川は、小川写真製版所として多くの写真集(写真帖)を刊行している。以下に例を挙げる。

ギャラリー

受章

関連書籍

評伝・研究

小説

脚注

  1. ^ 小川一真 おがわ-かずまさ”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社 (2015年9月). 2016年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 平木収 (1994), “小川一真”, 朝日日本歴史人物事典, 朝日新聞社, ISBN 4023400521, https://archive.is/QOINU#40% 
  3. ^ a b c d e 塚田良道 (2000年). “上州富岡町における小川一真の写真資料について”. 『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』. 國學院大學画像資料研究会. 2015年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月20日閲覧。
  4. ^ 神辺靖光「逸話と世評で綴る女子教育史(3):東京の英語女学生」(PDF)『月刊ニューズレター:現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』第3号、『月刊ニューズレター現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』編集委員会、2015年3月15日、6頁、 ISSN 21891826オリジナルの2016年3月21日時点におけるアーカイブ、2016年3月22日閲覧 
  5. ^ 清水 由布紀「写真がつなぐ日本とイギリス」『Seijo CGS working paper series』第15巻、成城大学グローカル研究センター、2019年3月、13-19頁、 ISSN 1883-7670 
  6. ^ a b 飯沢耕太郎 (1998), “おがわかずまさ【小川一真】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 日立ソリューションズ・クリエイト, https://archive.is/QOINU#60% 
  7. ^ 写真家・小川一真”. 浮世絵と写真でたどる明治ニッポン. たばこと塩の博物館. 2016年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月20日閲覧。
  8. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「小川一真写真店(小川写真製版所)」国立国会図書館蔵書、2018年2月9日閲覧
  9. ^ a b c d e f “小川 一真 オガワ カズマ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004), https://archive.is/g4YKR 
  10. ^ 『印刷美術大観』大阪出版社、1928年11月25日、20頁。 
  11. ^ 官報』第8199号(明治43年10月19日)
  12. ^ 小川一眞 おがわ かずまさ (1860-1929)”. ときのそのとき. meijitaisho.net. 2016年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月20日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小川一真」の関連用語



3
帝室博物館 デジタル大辞泉
100% |||||


5
農商務省 デジタル大辞泉
96% |||||

6
墨堤 デジタル大辞泉
96% |||||

7
築地別院 デジタル大辞泉
96% |||||

8
ホテル デジタル大辞泉
92% |||||

9
華族会館 デジタル大辞泉
92% |||||

10
上野 デジタル大辞泉
76% |||||

小川一真のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小川一真のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
おもしろ地図と測量のページおもしろ地図と測量のページ
copyright (c) オフィス 地図豆 All right reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小川一真 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS