大喪の礼
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Ceremony of the Imperial Funeral
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葬場殿に向かう昭和天皇の霊柩を乗せた葱華輦
(1989年〈平成元年〉2月24日撮影) |
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| 種類 | 国事行為 (天皇の国葬)
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| 頻度 | 天皇または上皇の崩御に際して挙行 |
| 会場 | 大喪ごとに造営。会場中央に霊柩を安置する仮設の「葬場殿」を設営 |
| 会場所在地 | 東京都新宿区新宿御苑 |
| 開催国 | |
| 前回 | 〈第124代天皇・昭和天皇〉 1989年(平成元年)2月24日 |
| 参加者 | |
| 主催 | 日本国政府 |
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大喪の礼(たいそうのれい、旧字体: 大喪ノ禮)は、日本の天皇、上皇の国葬であり、国事行為たる皇室儀礼。
日本国憲法下において「天皇(または上皇)の葬儀」は、皇室典範25条の規定に基づき国の儀式として執り行われる「大喪の礼」と、皇室の儀式として執り行われる「大喪儀」とに区別される。両者を合わせて「
日本では「
法規
日本国憲法20条3項が政教分離原則を定めることから、国家の宗教的中立性を保つため、国の儀式として行われる「大喪の礼」は、神道や仏教含む特定の宗教による儀式とされない(無宗教)。
皇室の私的な儀式とされた「大喪儀」は、明治天皇以降は皇室祭祀の神道儀礼に則って執り行われている。歴史的に皇室の葬儀は、飛鳥時代・奈良時代 - 江戸時代まで仏教寺院にての仏式の葬儀が行われていたが、1870年(明治3年)1月30日、孝明天皇の三年祭の際に神式が復古され神道式で執り行われるようになった。
現日本国憲法下において「政教分離原則」に基づく区別は、1989年(平成元年)2月24日に行われた昭和天皇の葬儀の時に定められ、皇居から葬場が設営された新宿御苑までの葬列、葬場における儀式の一部、新宿御苑から墓所が設置される武蔵陵墓地までの葬列が「大喪の礼」とされた(平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』竹下改造内閣)。同時に皇室の私的な儀式として「大喪儀」を行うという形式がとられた。
旧皇室典範下
明治天皇
1912年(明治45年)7月30日0時43分(実際は7月29日22時43分) 糖尿病性の慢性腎不全による尿毒症のため明治宮殿奥宮殿の御常御殿御座所で崩御した明治天皇(第122代天皇)の大喪儀は、同年(大正元年)9月13日から9月15日まで執り行なわれた。
崩御当日の7月30日、政府は天皇が朝政に臨まない「廃朝」を5日間と決定し、一連の大喪事務を管轄する「
8月5日には大喪の期日が、8月6日には陵所造営地が「京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山 伏見城本丸跡」に決まりそれぞれ告示。8月5日には内槽を銅製の御棺(外棺)に密封する「
大喪当日の9月13日は9時から、
二重橋から馬場先門までは20メートル間隔で高さ6メートルの
「葬場殿の儀」は23時15分から翌9月14日0時45分まで執り行われ、葬場殿に御饌21台を献じ、幣物を供える。霊柩の前に進んだ天皇が拝礼し
桃山仮停車場では八瀬童子104人が奉迎し、霊柩列車から桃山駅仮屋内に仮安置された霊柩は
青山葬場殿と轜車は9月15日から11月6日まで、桃山祭場殿は9月18日から11月3日までそれぞれ一般拝観に供される。明治天皇大喪で用いた轜車は現在、東京国立博物館が保管している。11月6日には明治宮殿で「権殿百日祭」、伏見桃山陵で「陵所百日祭」が行われ、「陵所百日祭」には天皇が行幸し参拝。11月8日に大喪使は廃止される。
1913年(大正2年)7月30日、明治宮殿奥宮殿の御常御殿御座所二の間にて「一周年祭権殿の儀」、伏見桃山陵にて「一周年祭山陵の儀」、7月31日、宮中三殿にて「一周年祭後一日
皇太后名代(葬場殿の儀)は竹田宮恒久王妃昌子内親王、天皇名代(陵所の儀)は閑院宮載仁親王、皇后名代(陵所の儀)は閑院宮載仁親王妃智恵子、皇太后名代(陵所の儀)は東伏見宮依仁親王妃周子。
大喪使総裁は伏見宮貞愛親王、大喪使副総裁は渡辺千秋、大喪使祭官長は鷹司熙通、大喪使祭官副長は正親町実正と万里小路通房。
主な国の特派使節
ハインリヒ親王 |
アーサー・オブ・コンノート親王 |
ドン・アルフォンソ・デ・オルレアン・イ・ボルボン親王 |
特派大使ノックス |
特派大使ジョルジュ・ルボン |
特派大使ニコラス・マレヴスキー・マレヴィッチ |
特派大使侯爵グイッチョリ |
特派大使男爵ラヂスラス・ミュルレル・ド・スツェントギオルギー |
特派使節グスタフ・オスカル・ワルレンベルク |
特派使節ドン・ラモン・ゼー・バチエコ |
特派使節ジャン・ヘルマン・ファン・ロイエン |
特派使節フェルヂナンド・サリス |
特派使節プラチャムノン・ヂターカー |
特派使節伯爵ジオルジュ・ドラ・ファイユ・ド・ルヴェルゲム |
特派使節アルフレッド・イララサウアル・サニヤルツ |
特派使節伯爵ペー・アーレフェルト・ラウルフィッグ |
特派使節ベー・アンケル |
特派使節フランシスコ・オルチス |
特派使節グスタヴオ・デ・ヴィアンナ・ケルシュ |
特派使節ヘンリケ・オーコンノル・マルチンス |
この他、イギリスの中国艦隊から、海軍儀仗兵500名が派遣された。
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明治天皇の大喪の礼(伏見桃山御陵)
大正天皇
1926年(大正15年)12月25日1時25分、心臓麻痺のため葉山御用邸付属邸御座所で崩御した大正天皇(第123代天皇)の大喪儀は、1927年(昭和2年)2月7日から翌2月8日にかけて執り行われた。
崩御当日の12月25日3時15分、掌典長九条道実が宮中三殿で践祚を奉告すると同時に、葉山御用邸付属邸謁見所では「剣璽渡御の儀」が行われ、皇太子裕仁親王が皇位を継承。同日、政府は天皇が朝政に臨まない「廃朝」を5日間と決定し、直ちに改元の詔書が公布され「昭和」に即日改元される。また、政府は一連の大喪事務を管轄する「大喪使」を宮中に設置。大行天皇(亡き先帝)の遺骸を載せた霊柩馬車は12月27日16時55分に葉山御用邸を出発し、17時30分に逗子駅に到着。遺骸は霊柩列車(初代3号御料車を改造)に遷座し、皇太后同乗の霊柩列車は19時5分に原宿駅側部乗降場に到着。遺骸を遷座された霊柩馬車は鹵簿を整えて20時20分、宮城の明治宮殿に到着した。
同日、遺骸を仮安置する櫬殿が明治宮殿表宮殿豊明殿に設置され、天皇、皇后、皇太后以下が大行天皇に最後の別れを告げる「御拝親訣」、遺骸を内槽に収める「槻殿の儀(御舟入の儀)」が行われ、諒闇の期間はおよそ1年間と定められる。12月28日10時30分、天皇、皇后は明治宮殿表宮殿正殿で「践祚後朝見の儀」を執り行う。
1月3日には陵所造営地が「東京府南多摩郡横山村大字下長房字龍ヶ谷戸」に、1月4日には大喪が2月7日に新宿御苑で挙行することがそれぞれ正式に決まり告示。1月5日、霊柩を槻殿から、大喪当日まで安置する殯宮(明治宮殿正殿に設置)に遷座する「殯宮移御の儀」を実施。殯宮では大喪当日まで連日、天皇、皇后、皇太后、皇族、親族、側近奉仕者、華族、各界代表らが昼夜交代で霊柩に付き添う「殯宮伺候」が続けられる。
1月17日「斂葬前殯宮拝礼の儀」を実施。同日16時45分、英国留学中の秩父宮雍仁親王が帰国し横浜港から東京駅に到着、そのまま参内する。1月19日、殯宮にて「追号奉告の儀」が行われ、大行天皇は「大正天皇」と
大喪当日の2月7日は9時から、霊代を向こう1年間奉安する権殿(明治宮殿奥宮殿表御座所に設置)にて「霊代奉安の儀」、10時から殯宮にて「斂葬当日殯宮祭の儀」を挙行。17時30分からの「轜車発引の儀」で、霊柩が殯宮から牛車の轜車に遷座される。18時、1発の号砲を合図に霊柩を乗せた轜車は明治宮殿表宮殿御車寄を出発。鹵簿は二重橋、馬場先門、日比谷、東京府立第一中学校(現・東京地方検察庁)前、司法省前、海軍省前、内幸町、虎ノ門、溜池、赤坂見附、青山御所前、青山北町一丁目、信濃町橋を経由し、轜車が新宿御苑の葬場殿に到着したのは20時30分だった。20時には東京港の海軍軍艦から48発の分時号砲が鳴らされた。
「葬場殿の儀」は21時20分から23時まで実施。23時35分、葬場殿から葱華輦に遷座された霊柩は新宿御苑仮停車場の霊柩列車(大正天皇大喪用に鉄道省新橋工場で新製)に移される。霊柩列車は翌2月8日0時15分に新宿御苑仮停車場を発車し、1時35分に東浅川仮停車場に到着。列車から再び葱華輦に遷座された霊柩は、2時15分に東浅川仮停車場を出発し、2時45分、陵所に設けた祭場殿に到着。そのまま「陵所の儀」が始まり、6時15分、霊柩を玄宮の石槨に埋葬する「陵所の儀・埋柩の儀」が完了する。同日、大正天皇陵は「多摩陵(たまのみささぎ)」と命名。石槨に納める陵誌は閑院宮載仁親王の染筆。
新宿御苑葬場殿と轜車は2月9日から2月28日まで、霊柩列車は2月13日から4月4日まで東浅川仮停車場でそれぞれ一般拝観に供される。多摩陵祭場殿は2月13日から一般拝観が始まり、多摩陵の通年参拝は4月3日から開始した。大正天皇大喪で用いた轜車は現在、宮内庁が保管している。5月7日には明治宮殿で「権殿百日祭」、多摩陵で「陵所百日祭」が行われ、「陵所百日祭」には天皇が行幸し参拝。6月30日に大喪使は廃止される。
12月25日、明治宮殿奥宮殿表御座所にて「一周年祭権殿の儀」、多摩陵にて「一周年祭山陵の儀」、宮中三殿にて「霊代奉遷皇霊殿渡御の儀」「皇霊殿親祭の儀」、12月26日、宮中三殿にて「一周年祭後一日大祓の儀」がそれぞれ行われ、大正天皇の御霊を権殿から宮中三殿の皇霊殿に奉遷・合祀し、1年間にわたる殯の儀式は幕を閉じた。
皇太后名代(葬場殿の儀)は東伏見宮依仁親王妃周子、天皇名代(陵所の儀)は秩父宮雍仁親王。
大喪使総裁は閑院宮載仁親王、大喪使長官は一木喜徳郎、大喪使次官は関屋貞三郎と塚本清治、大喪使祭官長は一条実孝、大喪使祭官副長は柳原義光と清水谷実英。
特派大使・特派使節
- 諸外国の特派使節の一覧は、『大正天皇大喪紀要』(外務省外務大臣官房人事課篇・1927年5月刊行)に掲載されている。国旗および役職名は1927年当時のもので、氏名・役職名は『紀要』の記載に準じる。
特派大使ウィルヘルム・ゾルフ(駐日大使) |
特派大使サー・ジョン・アントニー・セシル・ティレー(駐日大使) |
特派大使ドン・ペドロ・カルティン・イ・デル・サス・カバイエロ(駐日公使) |
特派大使チャールス・マクヴェー(駐日大使) |
特派大使ポール・ルイ・シャール・クローデル(駐日大使) |
特派大使アルベール・ド・バッソムピエール(駐日大使) |
特派大使ヂュユリオ・デラ・トレ・ラバーニア(駐日大使) |
特派大使イエー・セー・バブスト(駐日公使) |
特派大使 汪栄宝(駐日公使) |
特派大使ドン・マヌエル・エリアス・ボンヌメーゾン(駐日公使) |
特派使節フィア・チャムノン・ヂターカー(駐日公使) |
特派使節オスカル・アントン・ヘルマン・エーウェロフ(駐日公使) |
特派使節ドクトル・ジョセフ・スワグロウフスキー(駐日公使) |
特派使節ジョゼ・ダ・コスタ・カルネイロ(駐日公使) |
特派使節ドン・ペドロ・リヴァノス・ヴィクニ(駐日公使) |
特派使節ドクトル・マリオ・ルイス・デ・ロス・リアノス(駐日公使) |
特派使節ホセ・ヴァスケス・スキアフィーノ(駐日公使) |
特派使節グスターフ・ジョン・ラムステッド(駐日代理公使) |
特派使節フウルウッシ・フウアド・ベイ(駐日代理公使) |
特派使節グレゴワール・べセドウスキー(駐日臨時代理公使) |
特派使節シルヴォ・ランヘル・デ・カストロ(駐日臨時代理公使) |
特派使節アルフレッド・ブリュンネル(駐日臨時代理公使) |
特派使節ヴァツアウ・イエンヂェエウィッチ(駐日臨時代理公使) |
特派使節エル・グロエンヴォルド(駐日臨時代理公使) |
特派使節アイナル・ヴェルウム(駐日臨時代理公使) |
ローマ教皇特派使マリオ・ヂャルディニー大司教(駐日教皇公使) |
この他、イギリスの陸軍代表エル・アール・ヒル中佐、中華民国十四省討賊聯軍総司令・呉佩孚の幕僚温世珍、オランダ海軍軽巡洋艦スマトラ艦長コンクヘール・ショーレル大佐、東京横浜駐在各国領事らが参列。
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大喪儀が行われた葬場殿。
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轜車(大正天皇の霊柩車になる牛車)。
現行皇室典範下
根拠法令
昭和天皇
1989年(昭和64年)1月7日6時33 分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌) のため吹上御所2階寝室で崩御した昭和天皇(第124代天皇)の大喪の礼は、同年(平成元年)2月24日に内閣の主催により行われた。
崩御当日の1月7日10時1分、掌典長東園基文が宮中三殿で新天皇の践祚を奉告すると同時に宮殿正殿松の間で「剣璽等承継の儀」が執り行われ、皇太子明仁親王が皇位を継承。同日14時35分、内閣官房長官小渕恵三が新元号「平成」を発表し、代始改元は1月8日0時に実施される。政府は天皇崩御の翌1月8日、国の儀式として「大喪の礼」を2月24日に新宿御苑で行うことを正式決定。大喪の礼に関する事務を主管する「大喪の礼委員会」を内閣に設置する。同日、遺骸を仮安置する櫬殿が吹上御所1階の居間に設置。18時から遺骸をヒノキ製の内槽(内棺)に収める「御舟入の儀」が行われ、天皇、皇后、皇太后らが大行天皇の愛用品を内槽に納め、霊柩は
1月9日11時、天皇、皇后は宮殿正殿松の間で「即位後朝見の儀」を執り行う。同日18時20分、内槽をひと回り大きい銅製の御棺(外棺)に密封する「斂棺の儀」が櫬殿で行われ、天皇、皇后、皇太后以下が大行天皇に最後の別れを告げる「御拝親訣」を行い、柩は密封される。1月11日、宮内庁に皇太后宮職を設置。1月13日、大行天皇の諱号(追号)が「昭和天皇」と定められる。
1月17日、武蔵陵墓地で日枝神社神職が奉仕し「陵所地鎮祭の儀」を挙行。1月19日夕刻、霊柩を槻殿から、大喪当日まで安置する殯宮(宮殿正殿松の間に設置)に遷座する「殯宮移御の儀」を実施。殯宮では大喪の礼当日まで連日、天皇、皇后、皇族、親族、側近奉仕者、各界代表らが昼夜交代で霊柩に付き添う「殯宮伺候」が続けられる。1月20日、「殯宮移御後一日祭の儀」で天皇が御誄を奏上。1月22日から24日の9時から17時まで、宮殿長和殿ベランダに遺影を掲げ、宮殿東庭で「殯宮一般拝礼」が行われる。拝礼者は一般参賀の要領で二重橋を渡って東庭に進み、遺影とその奥に位置する殯宮に黙礼して坂下門から退出した。1月25日、在京外交団による殯宮拝礼が行われる。1月31日、殯宮にて「追号奉告の儀」を挙行。
明仁謹んで、御父大行天皇の御霊に申し上げます。 大行天皇には御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され、爾来、皇位におわしますこと六十有余年、ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。ここに、追号して昭和天皇と申し上げます。 — 天皇陛下、追号奉告の儀における御誄(平成元年1月31日)
2月23日、陵所が竣功し、武蔵陵墓地で「陵所祓除の儀」を、同日夕刻には、霊代を向こう1年間奉安する権殿(宮殿表御座所芳菊の間に設置)にて「霊代奉安の儀」を行う。2月21日-23日、天皇、皇后は赤坂御所で、大喪の礼に参列する海外からの弔問賓客を複数回の会見、お茶、晩餐などで接遇した(21日:フィンランド大統領コイヴィスト夫妻、22日:ドイツ連邦共和国大統領ヴァイツゼッカー夫妻など9組、23日:ベルギー国王ボードゥアン1世同妃ファビオラなど27組)。
「大喪の礼」当日の2月24日は殯宮にて「斂葬当日殯宮祭の儀」を挙行。夜に開始していた明治天皇・大正天皇の大喪とは異なり、午前から開始された。9時35分霊柩を載せた轜車(ニッサンプリンスロイヤル2号車を寝台車に改造)を中心として組まれた葬列(車30台、サイドカー30台の車列、全長約800m)が、宮内庁楽部による雅楽『宗明楽』と陸上自衛隊第1特科連隊による21発の弔砲に送られ、宮殿長和殿南車寄を出発。出発前には、皇室の儀式「大喪儀」である「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」が執り行われ、出発をもって国家儀式である「大喪の礼」が開式される。
葬列は葬送曲『哀の極』が奏楽される中、沿道に集まった約20万人の市民の間を進む。二重橋、皇居外苑、桜田門を通り、国会議事堂正門前、憲政記念館前、三宅坂、赤坂見附、青山一丁目、外苑前、南青山三丁目、神宮前三丁目、仙寿院、東京体育館、外苑橋第二、大京町を経て、新宿御苑の葬場総門まで到着。途中、青山通りで若年の新左翼過激派の男2人が「天皇制反対」を唱えて車列に突入したが、即刻警備員に補導される。葬場に到着後、霊柩は轜車から葱華輦に遷座され、鈍色の衣冠単(古式装束)を纏った皇宮護衛官が駕輿丁として担ぐ徒歩列が組まれる。徒歩列は雅楽が奏される中、白木造りの葬場殿に入り、霊輦(れいれん。霊柩が納められた葱華輦)が安置される。
ここで、
「葬場殿の儀」が営まれた後、幔門は再び閉じられて鳥居等が外され、内閣官房長官の小渕恵三が「大喪の礼御式を挙行いたします」と開式を告げ、国家儀式「大喪の礼」が開始。次いで、天皇・皇后が葬場殿前に進み、正午から1分間の黙祷が行われる。黙祷の後、内閣総理大臣竹下登、衆議院議長原健三郎、参議院議長土屋義彦、最高裁判所長官矢口洪一の三権の長が拝礼の上で弔辞を述べ、参列した諸外国元首・弔問使節の拝礼、参列者の一斉拝礼が行われ、葬場殿における「大喪の礼」は終了する。
その後、13時40分から再びニッサンプリンスロイヤルの轜車を中心とする葬列が組まれ、大京町、四谷四丁目、新宿御苑駅前、新宿三丁目、新宿四丁目、新宿駅南口、西参道口、初台、首都高速4号新宿線初台出入口、高井戸インターチェンジ、中央自動車道調布インターチェンジ、稲城インターチェンジ、国立府中インターチェンジ、八王子インターチェンジ、稲荷坂南、川口川橋、浅川橋、八幡町、本郷横丁、追分町、千人町、並木町、多摩御陵入口、南浅川橋、御陵参道を経て、15時15分、武蔵陵墓地総門に到着。途中、調布市の中央自動車道脇にあるのり面が葬列通過予定時刻30分前の13時54分、突然爆発。大量の土砂が高速道路路面を塞いだ。首謀者は「大喪の礼爆砕」を掲げていた過激派の革労協狭間派だった。
葬列は武蔵陵墓地総門から再び徒歩列が組まれ、天皇、皇后以下皇族も表参道・新参道を陵所まで歩く。陵所では皇室儀式としての「陵所の儀」が営まれ、霊柩が陵の玄宮に安置した石槨に納められる。2月25日、宮殿表御座所芳菊の間で「斂葬後一日権殿祭の儀・権殿五十日祭の儀」が、武蔵野陵で「斂葬後一日山陵祭の儀・山陵五十日祭の儀」が行われる。
2月23・25-27日、天皇、皇后は宮殿で、スペイン国王フアン・カルロス1世同妃ソフィア以下大喪の礼に参列した海外からの弔問賓客65組を複数回の会見、お茶、引見で接遇。2月27日、昭和天皇陵は「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」と命名される。石槨に納める陵誌は礼宮文仁親王の染筆。武蔵野陵と祭場殿は2月28日から3月28日の間に一般公開され、3月2日、宮殿表御座所萩の間で、天皇が御帳台から武蔵野陵に向かって先帝を偲ぶ「
1990年(平成2年)1月7日、宮殿表御座所芳菊の間にて「権殿一周年祭の儀」、武蔵野陵にて「山陵一周年祭の儀」、宮中三殿にて「皇霊殿奉告の儀」「皇霊殿親祭の儀」、1月8日、宮中三殿にて「一周年祭後一日大祓の儀」、1月9日、赤坂御所(御羽車発進時刻に天皇、皇后が遙拝)と宮中三殿にて「霊代奉遷の儀」がそれぞれ行われ、昭和天皇の御霊を権殿から宮中三殿の皇霊殿に奉遷・合祀し、1年間にわたる殯の儀式は幕を閉じた。
皇太后名代は常陸宮正仁親王妃華子。
大喪の礼委員会委員長は内閣総理大臣竹下登、副委員長は内閣官房長官小渕恵三、祭官長は永積寅彦、祭官副長は島津忠廣。
「大喪の礼」御式における竹下内閣総理大臣の弔辞[3]本日、ここに大喪の礼を迎え、昭和天皇に
永久 のお別れを告げなければならないことは、誠に哀痛の極みであります。昭和天皇は、六十有余年の長きにわたり御在位あらせられ、この間、我が国は悲しむべき大戦の惨禍、混乱と窮乏極まりなき廃
墟 からの復興と真の独立、比類なき経済の成長と国際国家への発展という、正に激動の時代を経験いたしました。このような時代にあって、昭和天皇は、世界の平和と国民の幸福を心から願われ、常に国民とともに苦難を乗り越えてこられたのであります。特に戦後においては、日本国憲法の下で、日本国の象徴、日本国民統合の象徴として公務に御精励になる傍ら、生物学の御研究にお力を注がれ、その御造
詣 の深さは内外に広く知られるところでありました。また、昭和天皇の清明仁慈の
御 心、公平かつ真摯 誠実なお姿に接して感銘を受けなかった者はありません。その御聖徳は、とこしえに語り継がれ、人々の心の中に生き続けるものと確信いたします。今ここに最後のお別れを申し上げるとき、おすこやかであらせられた御生前のお姿をしのび、悲しみの涙をとどめる
術 を知りません。私たち国民一同は、昭和天皇の
御 心に思いを致し、世界に開かれ、活力に満ち、文化豊かな日本を建設し、世界の平和と人類福祉の増進のため更に最善の努力を尽くしてまいります。御霊 の安らけく静まりたまわんことをお祈り申し上げ、ここに謹んで弔辞を奉呈いたします。
「大喪の礼」の当日は公休日となった(平成元年法律第4号「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」)。なお、都心は雨天であった。各地では弔旗・半旗が掲揚されたほか、全国のテレビ・ラジオ放送(NHK教育テレビ・NHK衛星第1テレビ・NHKラジオ第2を除く[4][5])も報道特別番組が編成され、民間企業のCMは自粛され、公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに差し替えられた。また、多くの公共施設が休館となり、多くのデパート・映画館なども休業した。フジテレビのドキュメンタリー番組『世界が日本を見つめた日』では、当日の報道特集を放送した。この日の全日帯での総世帯視聴率(HUD)は、あさま山荘事件で強行突入が行われた1972年2月28日に匹敵する62.8%に達した[6]。
「大喪の礼」には、世界各国から国家元首・使節・大使等、164か国(EC委員会を含む)・27機関の700人に及ぶ要人が参列し、弔問外交も行われた[7]。また国内からは、皇族、三権の長とその配偶者、国会議員(衆議院議員および参議院議員)とその配偶者、幹部公務員、都道府県知事、各界の代表者等が参列した(参列者の範囲は平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』による)。
主な国・地域、国際機関からの参列者
国旗は1989年当時のもの。また、諸外国および国際機関の代表参列者の一覧は『外交青書』(1989年版)[8]に掲載されている。世界中の王室が参列したが、オランダ王室だけは欠席した。当時は中東地域やアフガニスタン、カンボジアを巡る情勢が緊迫化していたこともあり、これらの地域の弔問外交が活発に行われた[9][10]。
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下 ラーシド外務担当国務大臣 アル・マカーミ大使 |
モサンナー通信・運輸大臣 ハイサム外務省儀典次長 |
ハイム・ヘルツォーグ大統領 |
ターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ副大統領 ザハウィ上級外務次官 アル・リファーイ大使および夫人 |
ミールサリーム副大統領 ハランディ国会議員(農業委員長) アデリ大使および夫人 |
ラーマスワーミー・ ヴェンカタラーマン大統領 |
スハルト大統領 シティ・ハルティナ大統領夫人 |
スワイニ国王代理殿下 |
姜英勲国務総理 申東元外務次官 李源京大使 |
ノロドム・ラナリット王子 |
オサイミ外務担当国務大臣 レズーキ外務省国際機関局長代行 アル・シャーリフ大使および夫人 |
アブドゥラアジズ皇太子 |
リー・クアンユー(李光耀)首相 |
ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領 |
ワチラーロンコーン皇太子 チャートチャーイ・チュンハワン首相 |
銭其琛国家主席特使(外相) 徐敦信外交部アジア司長 楊振亜大使 |
トゥルグト・オザル首相 セムラ・オザル首相夫人 |
ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ王子 |
ベーナズィール・ブットー首相 アースィフ・アリー・ザルダーリー首相夫人 |
アリ殿下(首長名代) |
フセイン・モハンマド・エルシャド大統領 |
コラソン・アキノ大統領 |
ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王 ダワ・ツェリン外務大臣 カルマ・レト駐日大使 |
ハサナル・ボルキア国王 スフリ・ボルキア王子 ジェフリ・ボルキア王子 |
レ・クアン・ダオ国家評議会副議長兼国会議長 |
マウムーン・アブドル・ガユーム大統領 |
フセイン1世国王 ザイド・ビン・シャーケル殿下(王宮長官) マダーダハ大使および夫人 |
アンドリーセン副委員長 ワインマーレン副委員長付官房長 ファン・アフト大使 |
オッディ枢機卿 カルー大使 |
フアン・カルロス1世国王 ソフィア王妃 サパテロ国会関係首相府官房担当大臣 バルシア大使 |
カール16世グスタフ国王 シルヴィア王妃 フェルト大蔵大臣 ヘイマン大使 |
ファン・デン・ブルック外務大臣 ポストゥムス・メイエス大使および夫人 |
ボードゥアン1世国王 アラゴン王妃 ティンデマンス外務大臣 |
ヘンリク王配 シモンセン大蔵大臣 アナセン大使 |
ハンス・アダム皇太子 |
ハーラル皇太子 |
ジャン大公 ジョゼフィーヌ=シャルロット大公妃 |
ブルーノ・シュトラウブ国民議会幹部会議長 |
エディンバラ公フィリップ ジェフリー・ハウ外務・英連邦大臣 |
フランソワ・ミッテラン大統領 ローラン・デュマ外務大臣 ドゥコー外務大臣付仏語圏国際文化交流担当大臣 ドラン大使 |
マウノ・コイヴィスト大統領 |
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領 ゲンシャー副首相兼外務大臣 ブレヒ大統領府長官 ハリーヤ大使 |
ゲルラッハ国家評議会副議長 ニーア外務次官 シュミット大使 |
ヴィグディス・フィンボガドゥティル大統領 |
パトリック・ヒラリー大統領 |
フランチェスコ・コッシガ大統領 |
マリオ・ソアレス大統領 |
アナトリー・ルキヤノフ最高会議幹部会第一副議長 |
バルチコフスキ国家評議会副議長 |
マネスク国家評議会副議長 |
アルベール皇太子 |
パパヨルギ大使 |
ホスニー・ムバーラク大統領 ブトロス・ガーリ外務担当国務大臣 エルメニアウィ大使および夫人 |
ダニエル・アラップ・モイ大統領 |
イブラヒム・ババンギダ大統領 |
ニャシンベ・エヤデマ大統領 |
モブツ・セセ・セコ大統領 |
ケネス・カウンダ大統領 |
ダウダ・ジャワラ大統領 |
ピエール・ブヨヤ大統領 |
キセッカ首相および夫人 |
バクーシュ首相および夫人 |
ウマル首相 |
クーン総領事 |
ヴァン・ドゥーネン外務大臣 ハレー外務省アジア・太洋州局長 |
アリー・ボンゴ大統領個人代表 |
ビタット国民議会議長 ベントゥーネ国民議会議員 ゼルーニ大使 |
シディ・モハメッド皇太子 フィラーリ外務大臣 ペンジェルーン大使および夫人 |
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領 バーバラ大統領夫人 ジェイムズ・ベイカー国務長官 スヌヌ首席補佐官 ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官 アンダーソン臨時代理大使 |
ソヴェー総督 |
フェルナンデス閣僚会議副議長兼教育大臣 |
ジョゼ・サルネイ大統領 ソドレー外務大臣 ツヅキ衛生大臣 ブエノ大使 |
マルティネス副大統領 デ・ラ・グァルディア政策担当外務次官補 ロス大使 |
エラスリス外務大臣 シルヴァ外務大臣秘書官 ポンセ大使 |
ジョージ・ハイドン総督 ダフィー貿易交渉大臣 ミラー大使 |
ポール・リーブス総督 マーシャル外務大臣兼太平洋島嶼国問題大臣 ゲイツ大使 |
タウファアハウ・ツポウ4世国王 ハラエバル・マタアホ王妃 |
ペナイア・ガニラウ大統領 コロヴァヴァラ侍従武官 ウォーカー大使 |
マリエトア・タヌマフィリ2世大首長 |
キジナー外務大臣 |
ハビエル・ペレス・デ・クエヤル事務総長 明石康事務次長 |
藤岡眞佐夫総裁 |
プーリ・アジア太平洋地域事務所長(事務局長補) |
関税および貿易に関する一般協定 ダンケル事務局長 |
コナブル総裁 |
キュング東アジア地域首席代表 |
米州開発銀行 デ・アンドレア理事(ペルー、コロンビア担当) |
ブラウン副総裁 |
中村事務局長補 |
カムドゥシュ専務理事 |
ジプゲップ事務総局次長 |
ペイユ事務総長 |
ドレーパー事務局長 |
ヤケール事務局長付特別顧問 |
シアソン事務局長 |
中嶋宏事務局長 |
ホー・アジア南西太平洋地域担当部長 |
グルグリーノ学長 |
将来の陵と喪儀のあり方
宮内庁は2012年(平成24年)4月、天皇と皇后の意向を踏まえ、今後の陵と喪儀のあり方について検討を行うと発表し、2013年(平成25年)11月14日、「今後の御陵及び御喪儀のあり方について[11]」と題する文書を公表。天皇と皇后はかなり早言う段階から陵と喪儀について話し合い、折に触れ宮内庁長官や宮内庁参与の意見にも耳を傾けてきたとし、皇室の歴史では陵の営建や喪儀に関し人々に過重な負担を課することを望まないとの考え方が古くからあり、天皇は今後の陵や喪儀全体についても、極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましいと考えてきたことを明らかにした。
同時に天皇は、従来の皇室のしきたりはできるだけ変えず,その中で現代の要請も入れて行うべきとの考えも示した。
宮内庁の基本的な考え方[12]
⚫︎日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と、象徴の配偶である皇后のそれぞれの身位にふさわしい陵、喪儀とする。
⚫︎皇室の喪儀の伝統的方式および昭和天皇の喪儀などの先例を基本とし、葬送のあり方に関する社会や国民意識の変化を踏まえる。
⚫︎国民の日常生活に影響が及ぶことを極力少なくするようなあり方とする。
陵について[12]
天皇は、昭和天皇陵と香淳皇后陵が、大正天皇陵と貞明皇后陵の場合と異なり隣接して平行に設置される形になっていず、武蔵陵墓地に陵所用地を確保するには限度があることを考慮し、自身の陵は従来より縮小して築き、昭和天皇陵、香淳皇后陵を囲む形で、自身を含む今後何代かの陵が営建できればと考えている。皇后との合葬も考慮したが、皇后は、天皇の気持ちに深く感謝しつつも合葬は遠慮した。皇后は同時に、皇后陵も従来比で小さくすべきとの考えを示した。
新たな陵は武蔵陵墓地における大正天皇陵の西側に営建。天皇陵、皇后陵のそれぞれの兆域を合わせた面積を約3,500 ㎡とし、昭和天皇陵と香淳皇后陵の兆域の合計(4,300 ㎡)の8割程度とする。形状は、明治以降の陵にならい、また旧皇室陵墓令を参酌して上円下方墳とし、鳥居および拝所はそれぞれに設け、祭祀はそれぞれについて行う形とする。合葬の形にはしないものの、両御陵が寄り添い不離一体の形となるよう陵域全体を一体的に整備する。
火葬について[12]
葬法については、天皇、皇后ともに陵の簡素化という観点も含め火葬が望ましいとの考えを示した。陵の用地制約のもと、火葬の場合は陵の規模や形式を弾力的に検討できるということ、現代社会では火葬が一般化していること、歴史的にも天皇皇后の葬送が土葬(1654年崩御の後光明天皇から2000年崩御の香淳皇后までは土葬)と火葬のどちらも行われてきたことを根拠とする。
天皇、皇后の身位を重く受け止め、火葬専用の施設を武蔵陵墓地内に設置する。施設はその都度設け、火葬後は撤収し、その資材・火葬炉等を保存管理し、適切な利用を図るものとする。具体的な設置場所については周辺環境に十分配慮し定める。
喪儀全体の組み立てについて[12]
⚫︎喪儀は、火葬導入後も1年間にわたり執り行われ、従来と同様にまず櫬殿(しんでん)での行事に続き、日本古来の「殯(もがり)」に由来する場所である殯宮(ひんきゅう)を皇居の宮殿に設営し、火葬までの間、一般の通夜に相当する「殯宮伺候」等が行われる。火葬当日、火葬導入に伴う儀式として、火葬の前に丁重かつ比較的小規模な葬送儀礼が行われる。火葬後、斂葬(れんそう)までの間,昭和天皇の喪儀の際に殯宮で行われた儀式等を参考にしつつ,拝礼の儀式等が,殯宮と同じ場所に設営する霊櫃(骨壺を納めた大型の箱)を安置した「奉安宮(ほうあんきゅう)」で行われる。
斂葬当日、「葬場殿の儀」および「陵所の儀」が行われ、斂葬翌日から一周年祭まで昭和天皇の喪儀と同様の儀式が行われる。
⚫︎火葬導入に伴い追加、変更等となる儀式については、祭場をしつらえ祭官が奉仕し、参列者が拝礼するなど皇室祭儀の有り様に沿うものとする。
⚫︎葬送の儀式である「葬場殿の儀」は、昭和天皇の喪儀を踏まえる。葬場については今後、規模・場所のあり方や,国民の利用への影響等を考慮し、国民生活への影響の少ないものとするほか、極端な気候・天候などにも安全に対応でき、できる限り樹木の伐採を伴わないなど環境への配慮が可能な場所とする。
⚫︎「大喪の礼」については,国事行為であり内閣が判断することになる。
⚫︎皇后、上皇后、皇太后等の喪儀については,その身位に鑑み,これまでと同様に大喪儀とし、火葬導入後も天皇大喪儀に準じた方法で、「葬場殿の儀」および「陵所の儀」を中心として1年間にわたり執り行う。
天皇が苦悩した殯の記憶[13]
天皇は2016年(平成28年)8月8日に発表した「おことば」でも、以下のように天皇大喪儀を先例どおり執り行うことの厳しさを語った。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が1年間続きます。その様々な行事と新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが胸に去来することもあります — 天皇陛下、象徴としてのお務めについてのおことば(平成28年8月8日)
脚注
- ^ a b 「明治天皇陸特綴附属書類 (4)」 アジア歴史資料センター Ref.C10050030900 、大正元年9月14日付『官報』号外、防衛省防衛研究所所蔵。
- ^ 「大喪儀関係 官報 (7)」 アジア歴史資料センター Ref.C10050097100 、昭和2年2月8日付『官報』号外、防衛省防衛研究所所蔵。井原頼明著『増補版 皇室事典』、冨山房、1942年。
- ^ 「大喪の礼」御式における竹下内閣総理大臣の弔辞(1989年2月24日) - データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)日本政治・国際関係データベース 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所
- ^ NHKニューススペシャル「昭和天皇 大喪」 「轜車発引の儀」「斂葬の儀」「葬場殿の儀」「大葬の礼」 - NHKクロニクル
- ^ NHKニューススペシャル「昭和天皇 大喪」 「葬列中継」「斂葬の儀」「陵所の儀」 - NHKクロニクル
- ^ “日本人の「テレビ離れ」はいつはじまったのか?データが明かす真実(週刊現代)” (日本語). 現代ビジネス. (2018年3月6日) 2018年11月30日閲覧。
- ^ 飯田三郎 「大喪の礼」を前にすでに始まった弔問外交(世界の眼)
- ^ 同書資料ページ 5.「昭和天皇大喪の礼」に参列した国および国際機関の代表
- ^ “弔問外交/ワードBOX”. 西日本新聞 (2005年4月6日). 2011年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月6日閲覧。
- ^ 共同通信 (2020年12月23日). “大喪・即位の礼で190超の会談(外交文書公開)”. 日本経済新聞. 2022年9月6日閲覧。
- ^ “今後の御陵及び御喪儀のあり方について”. 宮内庁ホームページ. 宮内庁 (2013年11月24日). 2026年2月14日閲覧。
- ^ a b c d “今後の御陵及び御喪儀のあり方について”. 宮内庁ホームページ. 宮内庁 (2013年11月24日). 2026年2月14日閲覧。
- ^ “象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば”. 宮内庁ホームページ. 宮内庁. 2026年2月26日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 昭和天皇の崩御に伴う主な儀式・行事一覧 - ウェイバックマシン(2016年12月20日アーカイブ分) (PDF, 177 KiB)
- 外交青書1989:一時代を画した大喪の礼
- 「昭和天皇大喪の礼」に参列した国及び国際機関の代表
- 天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時(朝日新聞)
- 昭和天皇 崩御 - NHK放送史
- A2 Le Journal 20H : émission du 24 février 1989 - INA(動画の4分43秒よりニュース)
- JA2 20H : EMISSION DU 24 FEVRIER 1989(4m43s〜) - YouTube - INA Actu
- CBS 48 Hours Hirohito Funeral February 24, 1989 - YouTube - CBSニュース
大喪の礼と同じ種類の言葉
- 大喪の礼のページへのリンク
