御料車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/23 09:45 UTC 版)
注釈
- ^ 弔事は葬儀の際に寝台車が用いられる[4]。
- ^ ナンバープレート一般についての規定を定めている。
- ^ 皇ナンバーの制度が始まる以前に、「第4号御料車」が存在したことはある[14]。鉄道や馬車の御料車では「4号」の車両も存在する。
- ^ 回送の際は、これら4つの紋章には革製もしくはビニール製のカバーがかけられる[18]。
- ^ この装置は一部の特別車も有している。
- ^ 先代の日産・プリンスロイヤルも同様。メルセデス・ベンツ・770など、戦前期の車両では西陣織が用いられていた。
- ^ 正確な時期は不明とされていたが、2010年代に公刊された『大正天皇実録』では、1902年(明治35年)5月4日に、主馬寮分厩(赤坂分厩)広庭にて、嘉仁親王が電気自動車の試走を見たと記されている。
- ^ 『威仁親王行実』では12日のことは記載があるが[26]、15日のことについては記載がない。10月15日の出来事は『昭和天皇実録』に記述があり、当時の幼少の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)は自動車をとても気に入ったと記されている[23]。
- ^ 吉田は当時の東京で唯一の自動車工場を経営していた人物[27]。依頼した時期について、「1905年冬」とする説[28][29]と、「1906年春」とする説[27]がある。
- ^ 威仁親王は日本に自動車を導入すべく精力的に活動していたが、病に倒れ、1909年4月にメルセデスが届いた頃には転地療養に入るほかなくなり、1913年の明治天皇の大喪の礼に際して、自身は参列できなくなっていたため、これらの車は外国来賓の接遇用にと宮内省に提供された[27]。療養先からも、御料車の選定には関与した(後述)。
- ^ 皇太子献納車について、皇太子成婚への献納品陳列所に明治天皇は行幸しており[31]、その際に見ていた可能性もある。
ダラック号とタクリー号については、威仁親王が参内に用いたという記録はあるが、明治天皇がそれらを見たかは定かではない。 - ^ 三越に宮中にトラック(もしくは乗用車)を持って来させたという説[34][35]もある。三越は商用車(トラック)を日本で最初に導入した事業者で、三井呉服店だった頃の1902年に最初の1台を注文したとされる[36][37]。そのトラックは三越の宣伝にも巧みに用いられていたことから、当時の人々にはよく知られていた。
- ^ この写真でも運転席に座っている[38]。助手席には徳川昭武(松戸徳川家)が座っている[38]。この写真は威仁親王が自身の運転で徳川慶喜とともに松戸(戸松邸)に出向いた時に撮影されたもので、同道した慶喜が写っていないのは撮影好きな慶喜が撮影した写真だからだと考えられている[38]。
- ^ 当初、馬車を扱う主馬寮ではなく、物品を扱う調度寮が自動車を扱うことになったのは、国外からの物品の取り寄せに慣れていたからだろうと考えられている[40]。
- ^ この時点で威仁親王は神戸の舞子で病気療養中で、その後も東京に戻ることなく、1913年(大正2年)7月に同地で薨去することになる。
- ^ 一番最初に回答をしたのは駐英大使館の加藤高明で、最も詳細だったのもこの報告だった[40]。この中で、イギリス国王ジョージ5世の自動車がデイムラーのリムジンであることが報告されたが、イギリス王室はロールス・ロイスを最良と評価しつつ、価格面からデイムラーを採用しているということも伝えた[42]。ロシア、ドイツ、イタリアの3国の報告も届き[43]、それらも参考にされた。
- ^ 大倉は、車両製造監督の任を果たした上で、各国王室の運転士の服もサンプルとして入手して日本に持ち帰ったものの、馬車の御者のそれと比べてもあまりに華美だったため、採用は見送られることになる[47]。大倉が入手したそれらの服は、その後も宮内省の庁舎で保管されていたが、戦時中の空襲で焼失した[47]。
- ^ 到着した車両の購入手続きや、前年に建設が進められた車庫などの設備、訓練が行われていた運転士の準備などが全て整ったことによる[46]。
- ^ 1920年(大正9年)に、裕仁親王の東京市内の非公式な外出について事情がない限りは自動車を使うことが決められた[55]。
- ^ この時の随衛は御料車の前方を走る第1供奉車に乗車していて、事件が発生した際にすぐに車外に出ようとしたが、敏速な行動ができなかった[55][57]。
- ^ 騎馬による側衛は即座に完全に廃止されたわけではなく、公式の鹵簿では廃止されたが、式外の鹵簿ではその後もしばらくは用いられることがあった[57]。
- ^ 公式鹵簿の平均速度は、1924年までは通常は時速12マイル(19 km)、最大で時速15マイル(24 km)とするよう決められていたが、1925年10月の改定でサイドカーに統一されてからは通常時の速度は時速16マイル(25 km)に引き上げられた[57]。
- ^ 「ドイツと接近していたから御料車がドイツ車になった」と説明されることがしばしばあるが、時系列としては齟齬がある。国際関係に原因を求める場合、御料車の研究者からは、イギリスとの関係が冷え込み出したことが理由として挙げられている[59][60]。
- ^ 実車や外装部品、色見本などが残っておらず、写真も白黒写真しかない。2代目御料車のロールスロイスの導入時に、この塗料は宮内省の指示でイギリスの塗料会社で作られた特色だと説明されている[75]。
- ^ 具体的には、戦前期の警視庁(内務省)による自動車車両検査取扱覚書の施行規則第13条に禁止の規定がある[76]。輸入車については、(華族の車両などで)当局の承諾があれば赤い車の使用は可能だったものの[76]、そうして許された例でも御料車に遠慮して塗り替えが行われている[77]。この規定は戦後もしばらく残り、1962年(昭和37年)に本田技研工業がS360、S500を発表する際に運輸省から認可を取得し、これが赤い市販車の始まりとなった[76]。
- ^ このことに感激した同社は自社の車両の名前を「TGE」から「ちよだ」へと順次改名した[80]。
- ^ 窓や側面パネルを防弾にするだけでなく、タイヤも厚さ25 mmのタイヤがダンロップに特注された[83][82]。
- ^ 1927年(昭和2年)に宮内省が陸軍省に御料車改造の照会を行った記録が残っている[82]。その際に費用として「1万7000円」かかると見積もりの記録があるものの、実際に発注が行われたのか、定かではない[82]。この額は臣下車を新車で1台購入するのに相当する額だった[82]。
- ^ ただし、2010年代の調査で、現存している5号車(1932年式)の車体のシリアルプレートに刻まれている型式は「30/150/240」で、770Kとして製造された車体であることが判明している[88]。過給機(スーパーチャージャー)は搭載されていないものの、車体は770Kを流用している可能性が指摘されている[88]。
- ^ 巡幸先でも塗装の補修が可能なよう、塗料はどこでも売られているものとするよう、開発段階で宮内庁からプリンス自動車に要望が出された[100]。
- ^ 菊花紋章が外された状態で引き渡されたため、フードマスコットはスリーポインテッド・スター、車体側面の紋章はレプリカ(花弁の枚数が16枚ではない)で代用されている[101]。
- ^ 赤坂離宮の車庫が空襲を受けた際に失われたとされる[59]。「焼失した」[89]とも言われているが、詳しい状況は不明。
- ^ 車体のシリアルプレートに刻まれている型式は「30/150/240」で、一般に知られている770ではなく、過給機搭載型の770Kの型式に当たる[88]。ただし、保存車両に過給機は搭載されていない[88]。
- ^ 車体のシリアルプレートに刻まれている型式は「30/150」[88]。
- ^ 貴賓車だった頃から数えると19年間。
- ^ この「マッカーサーの計らい」についてはどういったものだったのかが定かでない。「マッカーサーからの贈答品」だと紹介されることがあるが、自動車評論家の五十嵐平達は、そうではなく、当時の日本で禁止されていた自動車の輸入とドルの使用が、この車両の導入時には(GHQから)特別に許可されたというものだったと述べている[104]。
- ^ 梁瀬は「気分転換をしていただくため」この色にしたと述べている[102]。
- ^ 実態としては御料車専用車だが、宮内庁の建前としては「プリンス自動車が自主的に開発し、貴賓用車として市場に出し、宮内庁が御料車としてふさわしいと判断して購入した」ということになっている[105]。
- ^ 外装のデザイン(スタイリング)の責任者を務めた森典彦は、「華麗さは避け、質実な中にも重厚さ、貴賓を感じさせるもの」とすることをコンセプトにしたと述べている[106]。
- ^ 1980年に昭和天皇の健康が心配され始めた時期で、寝台車(霊柩車)への改装は同年夏に宮内庁から日産自動車に極秘で要請があった[105]。この時点で1953年型デイムラーを改造した霊柩車はまだ存在したが、宮内庁としては、既に老朽化していた同車が多摩御陵まで走り切れるか自信がなかった[105]。
- ^ 元々は外務省が日本万国博覧会(1970年。大阪万博)に際して国外からの来賓を送迎するために導入したもので、万博終了後は日産自動車に譲渡され、同社で保管されていた[14]。1978年(昭和53年)に「皇1」のプリンスロイヤルを退役させた際に、その代替として、宮内庁が日産自動車から購入した[14](御料車としては珍しい中古車)。
- ^ 同社の横浜工場(子安工場)で動態保存されているとされる[14]。
- ^ 市販車のカタログスペック上は2.7トン[59]。
- ^ 天皇の行為は政府による分類で「国事行為」、「公的行為」、「その他の行為」(私的な行為であっても公的な性格を持つもの)、「私的な行為」に分けられている[113]。
- ^ 1996年に「皇1」で登録された車両の場合も、導入時の価格は989万2120円で[116]、当時の市販仕様と比べても、大差はない。
- ^ 2021年末時点で、第8号御料車は3代目センチュリーに置き換わっている。第13号御料車として2代目センチュリーが1台使用中で[13]、第8号から番号が変わったとも考えられるが、裏付けとなる典拠がない。
- ^ 2019年(令和元年)9月に第9号御料車は3代目センチュリーに置き換えられている[16]。その時点で退役していると考えられるが、裏付けとなる典拠がない。
- ^ 皇室の人物では、1953年(昭和28年)に秩父宮雍仁親王が薨去してから、1987年(昭和62年)に高松宮宣仁親王が薨去するまでの34年の間で弔事が一度もなかった。宣仁親王が薨去した時点ではプリンスロイヤルの1台が既に寝台車化されていたため、この車両の出番はなかった。
- ^ この車両は1991年以降も整備と試運転が行われて維持されていたが、2006年に燃料ポンプの故障から走行できなくなったという[126]。ロールス・ロイス社へ修理部品の問い合わせが行われたものの、(オーダーメイドのため)納品がいつになるかわからないという回答で、修繕の見込みが立たなかった[126]。宮内庁としては、高額で納期のわからない調達はできないため、導入から16年が経過し、使用予定も当面なかったことも考慮し、廃車手続きを取ることにしたという[126]。
- ^ このことが2018年5月1日に『朝日新聞デジタル』によって報じられた際は、「4000万円で購入した車両が2回しか使われなかった」という報じ方の報道姿勢や、「ロールス・ロイスは修理体制が整っており、直せるはず」といった点について、物議をかもした[127][123]。
- ^ 昭和天皇の場合、皇居内での移動のような日常の足としてもプリンスロイヤルを使用していた[112]。
- ^ 特別架装を行えるメーカーが現在では実質的にトヨタ自動車しかなく、競争入札が成立しないため随意契約となる[129]。
- ^ 前記したように、御料車のような公用車であれば、国税である自動車重量税などは納める必要があるが、地方税である自動車税は免除される(皇室が用いる公用車であっても一般的な公用車と扱いは変わらない)。
- ^ 交通規制をする時間が長くなることについて、天皇明仁と皇后美智子が一般車に迷惑をかけることを気にしたことから変更された[139]。
- ^ 猶子は相続権を持たない養子。長じた後の威仁親王への明治天皇からの信頼は非常に厚く[25]、1899年(明治32年)には東宮輔導を任され、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係を務めた。このことは大正天皇と自動車との関係に影響を及ぼしたと考えられている[142]。
- ^ 1923年(大正12年)9月の関東大震災で宮内省の馬車舎が被災し、主だった儀装馬車がいずれも大破したため。
- ^ 次代の天皇明仁もこれを踏襲し、在位期間中に即位の礼以外で御料馬車に乗ることはなかった。
- ^ この年のグランプリで、ビラ王子は前座の下位クラスに参戦[148]。翌年はグランプリに参戦している。
- ^ このマスコットは皇居の三の丸尚蔵館に収蔵されている。
- ^ 威仁親王は明治天皇からの信頼も厚く、大正天皇の皇太子時代の東宮輔導を任されており、大正天皇にとっては教育係にあたり、強い結びつきがあった。
- ^ 有栖川宮は元は1672年(寛文12年)に高松宮から改称された宮号[38]。
- ^ この車両のカーナンバーは有栖川宮家が登録していたナンバープレートの「380」を継承した[150]。
- ^ どのレースのことかは不明。レストア車が完成披露されたのが1979年(昭和54年)11月のJAFグランプリなので、その時か、1980年代のことだと考えられる。
- ^ ゴルフや私的な旅行で何回か同道したことがあると本田は述べており[152]、本田の著作にも時折り登場する。
- ^ 皇族の死は上記した雍仁親王以来34年振りだったため、検討が必要になった。まず、霊柩車を馬車にするか自動車にするかで議論され、交通渋滞を避けるため、自動車に決まった[4]。次いで、民間から借り上げた霊柩車を使用するか、プリンスロイヤルを改造した寝台車を霊柩車として使用するか検討され、両車両を併用することに決まった[4]。このプリンスロイヤル寝台車は当時の第2号御料車で、1980年から1981年にかけて行われた改造でリムジンから寝台車に改装されていた[118][4]。
- ^ 前年の1953年(昭和28年)秋に軽井沢に滞在していた際に、運転技術を習得したとも言われている[34]。運転免許は品川の自動車試験場(鮫洲運転免許試験場)で取得した[151][155]。
- ^ 大手のトヨタ自工や日産自動車ではなく、小メーカーに過ぎなかったプリンス自動車を選んだ理由はいくつかあったとされる。
まず、同社の技術力は大手メーカーと比較して見劣りしないどころか、むしろ先進的だったという点[158]、2点目に、同社が東京に拠点を置いていたことは、アフターサービスを受ける上で好都合だった[158]。
加えて、東宮侍従の戸田康英(後の侍従長)の実兄・戸田康泰が同社の社員だったこと[151]、その上司の新山春雄の父親は御料牧場長の新山荘輔だったこと[151]、同社設計部長の中川良一の母方に宮内省次官がいたこと[151](母方の祖父の中村雄次郎は宮内大臣経験者)、といった人的関係も影響したと考えられている[158][159]。同社が日産自動車と合併した後は、明仁親王の学友で、日産自動車の系列会社に在籍していた明石元紹により、宮内庁との間で円滑な関係が築かれた[151](明石は明仁親王と個人的な付き合いもあったが自動車関連の話は避けるよう心掛け、自動車の話が出た時は一般論や産業論に水を向けるようにしたと述べている[105])。 - ^ ほかに、学習院の学友のアルファロメオ・1900を運転したであるとか[154]、静養先で宮内庁の庁用車を運転した[134]、といったエピソードもある。
- ^ 2016年(平成28年)に運転免許の更新を行っており[160]、これが最後の更新となる。2018年(平成30年)12月23日の天皇誕生日(85歳)の記者会見に際して、翌年1月の運転免許更新を行わないことを表明した[161][133]。
- ^ 1966年(昭和41年)にプリンス自動車が日産自動車に吸収された後、当時の私用車プリンス・グランドグロリア(4速MT)の後継として日産・プレジデントの購入を勧められたが、「プレジデントにはMTがない」という理由で不満を示したという[158](購入もしなかった)。
出典
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御料車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 02:22 UTC 版)
6号御料車1910年に新橋工場で製造された、初の20m級御料車。製造当時の技術の粋と贅を尽くして採算性度外視で設計製造され、全御料車中で最も華麗な内外装を備える車両として知られる。側面腰板に巨大な一枚板を使用し、中央に広窓を設け、更に台枠側梁を魚腹形とするなど各部に特殊設計が目立つが、二重屋根の明かり取り窓部に並ぶ水雷形通風器や妻面に設けられた窓など、主要部の設計は本系列の特徴を示す。台車は当時量産設計が未了であった明治44年式6輪ボギーの先行モデルに相当するが、釣り合いばね部を膨らませてポケット状とし、より背の高い釣り合いばねの使用を可能とした複雑な形状の鍛造釣り合い梁や、特殊な形状のトランサム、特別な定数を採用する重ね板ばねによる枕ばねなど、乗り心地を可能な限り良好なものとするために工作の容易さを完全に度外視して設計された、他例のない特製品を装着する。 6号御料車の詳細については皇室用客車#6号御料車を参照のこと。 7号御料車1914年に9号御料車と共に新橋工場で製造された、20m級御料車。基本構造は本系列量産車に準じ、台車も量産品と同等の明治44年式6輪ボギー(大正3年型)を装着する。 7号御料車の詳細については皇室用客車#7号御料車を参照のこと。 8号御料車基本形客車ベースの御料車としては最後に設計製造された車両。新橋工場の後身である大井工場で、1916年に製造された。台車は7・9号と同様、量産品と同等の明治44年式6輪ボギー(大正3年型)を装着する。 8号御料車の詳細については皇室用客車#8号御料車を参照のこと。 9号御料車1914年に7号御料車と共に新橋工場で製造された、20m級御料車。食堂車として供食設備を備えるが、同時期製造の一般向け食堂車とは車内配置が全く異なる。基本構造は本系列量産車に準じ、台車も量産品と同等の明治44年式6輪ボギー(大正3年型)を装着する。 9号御料車の詳細については皇室用客車#9号御料車を参照のこと。
※この「御料車」の解説は、「鉄道院基本形客車」の解説の一部です。
「御料車」を含む「鉄道院基本形客車」の記事については、「鉄道院基本形客車」の概要を参照ください。
御料車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 09:38 UTC 版)
御料車は、歴代の皇族が乗る車両で、「御料」とは、高貴な人の所有物・利用物の意である。 御料車は、その時代における最高の車両製造技術と工芸美術の粋を結集して製造されており、工芸品としても貴重なものである。また、明治・大正期の一般用客車がほとんど残存していないため、当時の車両製造技術を今に伝えるものとして、鉄道技術史の面でも貴重な資料である。 御料車に番号が付与されたのは、1911年(明治44年)の鉄道院の車両称号規程制定時で、それまでは、単に玉車(ぎょくしゃ)、鳳車(ほうしゃ)と呼ばれていた。この規程により6両が御料車として番号を付与されたが、それ以後12両が製造あるいは入籍されており、計18両の御料車が存在したことになる。しかしそれ以前に、1872年(明治5年)の鉄道開業式で明治天皇の御乗用に供された客車など、番号を付与されなかった複数の御料車、あるいは貴賓車が存在していたのは確実であるが、その詳細はよくわかっていない。 かつては、天皇用とは別に皇后用など複数の御料車が使用されていたこともあったが、1号御料車(3代)の落成後は、同車がもっぱら使用された。しかし、2007年(平成19年)にE655系電車が代替車として落成したことにより、使用可能な御料客車は存在しない。1号の他にも、2号(2代)、3号(3代。旧1号(2代))、及び14号が、御料車として2010年現在もJR東日本に車籍を有するが、全く使用されておらず、検査が行われていないため、いずれも予備車としても使用できる状態にない。 この他に、電車であるクロ157-1やE655-1も同様の用途に供される車両であるが、過去に私鉄に存在した同等の車両、もしくは外国の同種の車両と同様に、貴賓車(きひんしゃ)または特別車両という呼称が用いられる。 日本国有鉄道(国鉄)時代は全国で1号御料車の運転が見られたが、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、皇室用客車がJR東日本に継承されたこともあって、ほぼJR東日本管内での運転に限られている。
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