大正天皇実録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 05:22 UTC 版)
『大正天皇実録』(たいしょうてんのうじつろく)は、宮内省図書寮編集課[1][2][3]により編纂された大正天皇の伝記(実録)である[4]。
注釈
- ^ 年表は年表上が2冊、年表下が2冊の計4冊あるが、上下ともに重複して存在しているため実質的に2冊である[16][17]。
- ^ 先の年表2冊の注釈にある通り、年表の上下は重複して存在しており年表は計4冊とされていた。宮内庁も実録は全97冊としていたため、実録が公開された2002年当初は実録の構成を「本文85冊、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊の計97冊」と報道されていた。しかし、実録の全冊が公開され全容が判明した2011年以降は年表の重複分を除いた「本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊」と報道されており、本記事においても年表の重複分を除いた実質的な実録の構成である「本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊」で表記するものとする。[3][20][21][2][22][23][24]
- ^ 宮内公文書館で公開されているのは最終稿本で、これを印刷用原稿として完成本が作られ天皇に奉呈されたが、2016年(平成28年)12月現在、宮内公文書館は完成本を所蔵していない[27]。
- ^ この文言から当初は実録の公開を視野に入れていたことを示唆しているが、結局実現することはなく実録の公開は2001年まで待たねばならなかった。
- ^ 「大正天皇実録編集事業功程」または「大正天皇実録部編集事業功程」と題する成績報告の公文書。年度表記される場合があるが、各年ごと1月から12月までが対象である。[36][37]
- ^ 先の出典では「梅田嘱託が前年、嘉納嘱託が本年に逝去した」とあるが、嘉納履正が死去したのは1986年1月13日であり、2人の後任の宇宿捷と中根克が事務嘱託に着任後の昭和6年7月1日現在の宮内省職員録や、少なくとも昭和十六年四月一日現在の宮内省職員録まで嘉納履正の名があることから、同姓同名同漢字の別人が死去に併せて入れ替わりで入ったのでない限り誤りとみられる[40][42]。
- ^ 「国務大権」と「宮務大権」という言葉は、酒巻芳男宮内官(1918年入省)が唱えた用語と関連している可能性が指摘され、国家統治法を「国家法(憲法)」と「皇室法(皇室典範)」の2つで考えると「国家法(憲法)」のみが国家の法と取られかねないため、両者ともに国家の法という考えのもと「国家法(憲法)」を「国務法」、「皇室法(皇室典範)」を「宮務法」とした[37]。
- ^ 「皇室令録」(昭和九年・第五号「図書寮ニ臨時職員増置ノ件附属書類」)中にある「大正天皇実録補訂部ヲ特設スルヤ否ノ件」によると、1934年12月4日に必要ないと決まったため設置されていない[53][54]。
- ^ 「大正天皇実録補訂功程予定表」には、大正天皇実録補訂事業の「昭和十年以降二箇年半ニ於ケル所要経費」の予算として総額41,368円が試算されている[55]。
- ^ この年に談話聴取を行った相手は、1935年5月2日実施=東久世秀雄男爵、大河内正敏子爵、小出英延子爵、西郷従徳侯爵、片桐貞央子爵、以上元側近奉仕者(明宮時代)。1935年5月15日実施=元侍従長徳川達孝伯爵(明宮時代)。1935年12月5日実施=元東宮侍従高辻宣麿子爵、元東宮侍従・侍従甘露寺受長伯爵、元東宮武官・侍従・宮中顧問官清水谷実英伯爵。[66]
- ^ このことは当時から認識されており、渡部信図書頭が湯浅倉平宮内大臣に提出した1934年6月18日付けの人員増置の件に関する稟議書の前の段階で作成されたと考えられる文書(表題等全て無記入)には「明治天皇紀カ堂々タル官制ニ拠リ前後約二十年ノ歳月ヲ費ヤシタルニ比スルトキハ、本件編集事業カ組織ニ於テ遙カ貧弱過キルモノアルハ、本件事業ノ直接動機ヲ旧側近奉仕ノ御用掛任命ニ求メタルカ禍根ヲ為シタルモノニ有之。又編集物体裁ノ粗漏多キハ、大正天皇実録編集事業ノ挙カ明確ナル一般認識ヲ缺ケルコトニ相当原因スル所アルヲ痛感スル次第ニ御座候」とあり、明治天皇紀との比較は編纂時から意識されており、編纂事業の遅滞の原因については厳しい認識を示している[53]。
- ^ 大正天皇実録はタイプライターで5部作製され、それぞれ1部ずつ天皇、皇后、皇太后、宮内大臣、図書寮に提出されている[60]。
- ^ 朝日新聞社は新たな取材手法として情報公開法を利用することに決め、全国4本社の記者から計約1,000件の請求案を募り、法が施行されると同時に各省庁に一斉請求を行っている。なお、出典著者の中島昭夫はこのプロジェクトの事務局を務めている[80]。
- ^ 当時の情報公開法施行令3条1項の4要件は、「1.当該資料が専用の場所において適切に保存されていること。2.当該資料の目録が作成され、かつ、当該目録が一般の閲覧に供されていること。3.次に掲げるものを除き、一般の利用の制限が行われていないこと。イ〜ハ(略)4.当該資料の利用の方法及び期間に関する定めが設けられ、かつ、当該定めが一般の閲覧に供されていること。」となっており、宮内庁はそれぞれ「1.書陵部の専用の書庫において適切に保存されていること、2.目録が作成され、かつ、当該目録は一般の閲覧に供されていること、3.施行令3条1項3号で定めるものを除き,一般の利用制限が行われていないこと、4.書陵部において利用規則が定められ、かつ、利用規則が一般の閲覧に供されていること」から全ての要件を満たしているとしている[81]。
- ^ 大正天皇の個人情報に該当するかどうか等[81]。
出典
- ^ “書陵部パンフレット”. 宮内庁 (2018年3月). 2020年3月31日閲覧。
- ^ a b c d e “晩年期の「大正天皇実録」公開”. 産経新聞. 2008年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “大正天皇実録の不開示決定(行政文書非該当)に関する件(平成13年諮問第21号)”. 内閣府. 2003年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u “大正天皇実録 補訂版 全六巻・別巻一 - ゆまに書房”. ゆまに書房. 2020年3月31日閲覧。
- ^ a b c d e f 堀口修 2010a, p. 5.
- ^ a b c d e f 堀口修 2010b, p. 10.
- ^ a b c d e f 季武嘉也 2005, p. 98.
- ^ a b c d e f g 宮内庁 2016, p. 254.
- ^ a b c d e f g h i 堀口修 2010b, p. 9.
- ^ a b “大正天皇実録正誤表昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. 宮内庁 (2020年7月1日). 2020年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e “<大正天皇>実録の一部を29日に公開 宮内庁”. 毎日新聞. 2002年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “日々の行動など記した「大正天皇実録」公開へ 宮内庁”. 朝日新聞東京本社版2001年12月13日付夕刊、第4版、第1面。. 2001年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g “大正天皇実録、4回目の公開 全85巻出そろう”. 日本経済新聞 (2011年3月25日). 2020年4月6日閲覧。
- ^ “大正天皇実録年表上昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. 宮内庁 (2020年7月1日). 2020年7月6日閲覧。
- ^ “大正天皇実録年表下昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. 宮内庁 (2020年7月1日). 2020年7月6日閲覧。
- ^ “大正天皇実録年表上昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. 宮内庁 (2020年7月1日). 2020年7月6日閲覧。
- ^ “大正天皇実録年表下昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. 宮内庁 (2020年7月1日). 2020年7月6日閲覧。
- ^ “若き大正天皇の姿生き生き 宮内庁で「実録」閲覧始まる”. 朝日新聞. 2011年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月6日閲覧。
- ^ a b c d “青年期、はつらつと 「大正天皇実録」最終公開”. 朝日新聞東京本社版2011年3月26日付朝刊、第13版、第23面. 2013年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月17日閲覧。
- ^ a b c d e f 「「大正」元号 出典は「易経」 実録の一部公開」『朝日新聞』東京本社版2002年3月29日付夕刊、第4版、第1面。
- ^ a b c “「大正天皇実録」、2回目の閲覧始まる”. 朝日新聞東京本社版2003年3月28日付夕刊、第4版、第22面。. 2003年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月7日閲覧。
- ^ 「大正天皇の病状を詳述」『朝日新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第14面。
- ^ 「「御記憶力ハ御衰退アリ」大正天皇実録3度目公開」『読売新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第14面。
- ^ a b c d e f g “闘病の日々、淡々と記述 「大正天皇実録」第3回公開”. 朝日新聞東京本社版2008年6月5日付朝刊、第13版、第23面。. 2012年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月9日閲覧。
- ^ a b 「「大正天皇実録」一部きょう公開 宮内庁、皇位継承から2年分 政治指導者の評価に注目」『日本経済新聞』東京本社版2002年3月29日付朝刊、第13版、第42面。
- ^ a b c d e f 堀口修 2010a, p. 13.
- ^ a b 宮内省図書寮・岩壁義光 2016, p. 5.
- ^ a b c d e f g h i “「大正天皇実録」 黒塗りだった記録公開”. NHK. 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月9日閲覧。
- ^ “黒塗りせず「昭和天皇実録」公刊へ…宮内庁方針”. 読売新聞. 2014年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月9日閲覧。
- ^ “ゆまにだより一覧”. ゆまに書房. 2017年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月7日閲覧。
- ^ a b 堀口修 2010a, p. 2.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 2–3.
- ^ 堀口修 2010a, p. 4.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 4–5.
- ^ a b c d e 「個人情報を黒塗り 「大正天皇実録」全体の約3%」『毎日新聞』東京本社版2011年3月25日付夕刊、第4版、第10面。
- ^ 堀口修 2010a, pp. 6–7.
- ^ a b c d e 堀口修 2010a, p. 17.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 5–6.
- ^ a b c 堀口修 2010a, p. 6.
- ^ a b “宮内省職員録 昭和六年七月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 134-137 (1931年). 2020年8月6日閲覧。
- ^ “宮内省職員録 昭和十六年四月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 87 (1941年7月). 2020年8月7日閲覧。
- ^ “全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表”. 公益財団法人全日本柔道連盟. 2020年8月3日閲覧。
- ^ “宮内省職員録 昭和八年一月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 131 (1933年). 2020年7月30日閲覧。
- ^ “宮内省職員録 昭和六年七月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 137 (1931年). 2020年7月16日閲覧。
- ^ a b 堀口修 2010a, p. 7.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 7–8.
- ^ a b c 堀口修 2010a, p. 8.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 8–9.
- ^ 堀口修 2010a, p. 9.
- ^ a b c 堀口修 2010a, p. 10.
- ^ 堀口修 2010a, pp. 10–11.
- ^ a b c d 堀口修 2010a, p. 11.
- ^ a b c 堀口修 2010a, p. 18.
- ^ 堀口修 2010b, pp. 11–12.
- ^ 堀口修 2010a, p. 16.
- ^ a b “宮内省職員録 昭和十一年一月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 136 (1936年). 2020年5月4日閲覧。
- ^ “宮内省職員録 昭和十年一月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 134 (1935年). 2020年7月29日閲覧。
- ^ 堀口修 2010b, pp. 1–2.
- ^ a b c 堀口修 2010b, p. 1.
- ^ a b c 堀口修 2010b, p. 12.
- ^ “宮内省職員録 昭和十二年一月一日現在”. 宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者). p. 115 (1937年). 2020年7月23日閲覧。
- ^ 堀口修 2010b, p. 2.
- ^ 堀口修 2010b, p. 4.
- ^ 堀口修 2010b, p. 3.
- ^ 堀口修 2010b, pp. 4–6.
- ^ 堀口修 2010b, pp. 5–6.
- ^ a b c 堀口修 2010b, p. 6.
- ^ a b c d e 堀口修 2010b, p. 7.
- ^ 堀口修 2010b, pp. 7–8.
- ^ 堀口修 2010b, pp. 8–11.
- ^ a b 宮内省図書寮・岩壁義光 2016, p. 2.
- ^ a b 季武嘉也 2005, pp. 98–99.
- ^ 宮内庁 2016, pp. 254–255.
- ^ a b 「「大正天皇実録」 「多摩陵」選定 地盤決め手 万葉集の記述も考慮」『日本経済新聞』東京本社版2008年6月6日付朝刊、第14版、第38面。
- ^ a b “大正天皇実録:黒塗り大半解除 脳貧血の病状など明らかに”. 毎日新聞東京本社版2015年7月1日付朝刊、第14新版、第28面。. 2015年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月9日閲覧。
- ^ a b “NHK NEWS WEB 大正天皇の実像詳細に”. NHK. 2015年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
- ^ a b c d 「「遠眼鏡事件」記述なし 大正天皇実録公開 漢詩に造けい浮き彫り」『朝日新聞』東京本社版2002年3月29日付夕刊、第4版、第26面。
- ^ a b 季武嘉也 2005, pp. 95–98.
- ^ a b c “大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明”. 朝日新聞東京本社版2015年7月2日付朝刊、第14版、第34面。. 2015年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月6日閲覧。
- ^ 中島昭夫 2005, pp. 8–9.
- ^ a b c d e “歴史的資料等(法第2条第2項)についての検討資料”. 総務省. p. 5 (2004年). 2020年4月20日閲覧。
- ^ 瀬畑源 (2004年3月). “『年報 日本現代史』第九号 象徴天皇制と現代史 (二〇〇四年三月)抜刷 情報公開法の不服審査 ――宮内庁に関する審査の実例――”. 現代史料出版、東出版. p. 156. 2020年4月27日閲覧。
- ^ “情報公開審査会 答申一覧 001〜092”. 内閣府. 2002年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月27日閲覧。
- ^ a b 季武嘉也 2005, p. 90.
- ^ a b c “大正天皇実録、黒塗り減らして公開 宮内庁「時間の経過考慮」”. 産経新聞 (2015年7月2日). 2020年4月20日閲覧。
- ^ a b c d e 「大正天皇実録一部を初公開 黒塗りの個所も 病状や首相内奏 非開示」『日本経済新聞』東京本社版2002年3月29日付夕刊、第4版、第18面
- ^ 季武嘉也 2005, p. 95.
- ^ “閲覧が始まった「大正天皇実録」 日々の記録に素顔見えた”. 朝日新聞. 2002年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月6日閲覧。
- ^ “大正天皇実録、公開第2弾=7年分、1251ページ-宮内庁”. 時事通信. 2003年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月16日閲覧。
- ^ a b c d e 「大正天皇の最晩年 公開へ 裕仁皇太子、摂政の時期」『日本経済新聞』東京本社版2008年2月9日付朝刊、第14版、第34面。
- ^ “黒塗りの合間に大正天皇の実像 実録閲覧2回目”. 朝日新聞. 2003年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月7日閲覧。
- ^ 「「大正天皇実録」最晩年を公開 大喪までの5年半分」『日本経済新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第18面。
- ^ 「社説「大正天皇実録 歴史資料は黒く塗らずに」」『朝日新聞』東京本社版2008年6月8日付朝刊、第14版、第3面。
- ^ 「宮内庁 病状の深刻化記す 「大正天皇実録」3度目公開」『毎日新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第8面。
- ^ a b 「「大正天皇実録」第1〜47巻公開」『読売新聞』東京本社版2011年3月25日付夕刊、第4版、第10面。
- ^ a b “大正天皇実録の黒塗り大幅解除、面会者など公開”. 読売新聞東京本社版2015年6月30日付朝刊、第13版、第33面。. 2015年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月19日閲覧。
- ^ “大正天皇実録の黒塗り減る 病状や面会者が明らかに”. 共同通信、47NEWS. 2015年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月9日閲覧。
- 1 大正天皇実録とは
- 2 大正天皇実録の概要
- 3 内容
- 4 実録公開の経緯
- 5 出版書誌
大正天皇実録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 00:20 UTC 版)
詳細は「大正天皇実録」を参照 1927年6月、宮内省は図書寮に大正天皇実録部を設置し『大正天皇実録』の編纂を開始した。実録は1934年(昭和9年)末に145冊の稿本が作成された後、更なる資料の補遺、充実を図り、1936年(昭和11年)の大正天皇十年祭を前に完成し、昭和天皇、香淳皇后、節子皇太后(貞明皇后)に捧呈された。しかし、長い間非公開であり、朝日新聞の情報公開請求を契機として2002年(平成14年)から2011年(平成23年)にかけ、4回に分けて公開された。ただし、この時は個人識別情報として全体の3パーセントが黒塗りとされた。その後、2015年(平成27年)に公文書管理法の「時の経過」を考慮して黒塗り部分が残り0.5パーセントまで減らされたが、現在も学業成績や病状に関する部分の一部が非公開とされている。 ゆまに書房が2016年(平成28年)から2021年(令和3年)にかけて実録本文の補訂版を刊行中である。
※この「大正天皇実録」の解説は、「大正天皇」の解説の一部です。
「大正天皇実録」を含む「大正天皇」の記事については、「大正天皇」の概要を参照ください。
- 大正天皇実録のページへのリンク