宮内大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:58 UTC 版)
1914年(大正3年)4月9日に宮内大臣となったが、これは昭憲皇太后崩御の当日という極めて異例なものだった。これは前任の渡辺千秋宮内大臣の汚職が発覚したためであり、皇太后崩御発表(4月11日)前に宮内大臣を変える必要があったためであった。1917年(大正6年)には功によって子爵にのぼった。しかし宮中に強い影響力を持つ元老山縣有朋との関係は良くなく、波多野は山縣が無理を言ってきて困ったと回想し、山縣も波多野のもとでは「事務運ばず」と不満を述べている。1920年(大正9年)6月19日に波多野の辞職が発表され、新聞報道でも「寝耳に水」と驚きを持って迎えられた。山縣は5月15日に行われた皇族会議での失態を取り上げており、これは皇族の臣籍降下問題における、皇族からの反発を抑えることができなかったことを指している。この機に山縣は松方正義、西園寺公望ら他の元老とともに辞職を勧告、波多野もすぐにこれに応じた。山縣は辞職後に枢密顧問官とする方針を伝えたが、波多野は断っている。原敬は山縣が自派で宮中を独占するために波多野を辞職に追い込んだと見ている。久邇宮良子女王の色覚異常問題が表面化すると(宮中某重大事件)、山縣が皇太子妃を辞退させるために波多野を辞職に追い込んだという観測が見られるようになり、倉富勇三郎も原因の一つではないかと推測している。 1922年(大正11年)、73歳で死去。正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。
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