枢密院
枢密院(すうみついん)は、国王・皇帝の諮問機関である。共和制国家には大統領等の諮問・参与機関として国家評議会が設置される場合がある。「枢密」とは機密や政治上の重要な秘密のこと[1]。
- 枢密院 (中国) - 主として軍制をつかさどった中華歴代王朝の国家機関。Party (Privy?) councilの日本語訳の語源となった。
- 枢密院 (イギリス) - イギリス国王の諮問機関。イングランド王国期の枢密院も同項で解説。
- 枢密院 (アイルランド) - アイルランド国王の諮問機関。1922年以降活動なし(ただし、廃止はされていない)。
- 枢密院 (北アイルランド) - 1922年創設、1973年廃止。
- 枢密院 (スコットランド) - スコットランド国王の諮問機関。1708年に廃止。
- 枢密院 (カナダ) - カナダ国王の諮問機関。
- 枢密院 (日本) - 日本で1888年(明治21年)から1947年(昭和22年)まで存在した天皇の諮問機関。
- 最高枢密院 - ロシア皇帝の諮問機関。1730年廃止。
- 国王顧問会議 - フランス国王の諮問機関。1799年廃止。
- 枢密院 (タイ) - タイ国王の諮問機関。
- 枢密院 (スウェーデン) - 1634年(記録上)から1772年革命勃発に伴う廃止まで、スウェーデンに存在したスウェーデン国王の諮問機関。
脚注
枢密顧問官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:29 UTC 版)
大正4年(1915年)の第12回衆議院議員総選挙で大隈信常(大隈重信養子)に敗れて落選した竹越は本野一郎らと「日本経済史編纂会」を結成し、大正8年(1919年)から翌年にかけて上知令を基軸に天保改革を論じ、『日本経済史』全8巻を刊行した。竹越は「歴史の第一原因は経済的要因」にあると唱えた。 大正11年(1922年)に宮内省臨時帝室編修局御用掛に任命され、ほどなく編修官長に転じて『明治天皇紀』編纂の中心的役割を担った(ただし、後に竹越が書いた草稿を読んだ竹越夫人の甥である中村哲は、最終的に金子堅太郎・三上参次らがまとめた現存の『明治天皇紀』との大きな違いの存在を指摘している)。竹越は『記紀神話』の要点を史実として述べ、その中に一流の合理的解釈をはさむという手法を取った。この年貴族院議員に任じられ、政友会系の交友倶楽部に属した。昭和5年(1930年)には西園寺公望の半生を記した伝記『陶庵公』を執筆する。 昭和15年(1940年)には枢密顧問官に転じるが、軍部の圧迫で『二千五百年史』が発売禁止になるなどの圧迫を受けた。更に東京大空襲で蔵書や原稿を焼失した。戦後、枢密院廃止後は一切の公職から退く。昭和22年(1947年)に公職追放処分を受けた。
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