経済的要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:30 UTC 版)
経済面からの説明としては、産業革命によって列強諸国の経済体制が大きく変動したことで、各国はその産業の原料供給地と市場を確保する必要に迫られ、対外進出を行い後進地域を競って統治下においたとの説明が一般的であった。そしてそのために各植民地に鉱山やプランテーションを開設し、原料供給地としてモノカルチャー経済下に置いたと説明された。この説明は一面の真理ではあるが、必ずしもすべてを説明しているわけではない。 経済的な帝国主義は、必ずしも政治的な植民地化や対外拡張を伴ったというわけではなく、また各国の植民地が経済的に重要な地位を占めるということもわずかな例外を除けば存在しなかった。例えば植民地化が最高潮に達した1913年の世界貿易において、アフリカの割合は3.5%、インドの割合も同じく3.5%にすぎず、植民地はそれほど大きな割合を持っていない。同年のヨーロッパ諸国及びアメリカ合衆国の貿易総額は世界全体の72.4%を占めており、貿易の主戦場はあくまでも先進国間貿易であって植民地貿易ではなかった。これは投資においても同様であり、各国の資本は自国の植民地ではない地域に投下されることが圧倒的に多かった。フランス資本はフランス植民地ではなくロシアに最も投下されたし、イタリアもバルカン半島や中東といった自国の植民地外への投資を主に行っていた。イギリスは自国の白人入植型植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)への投資をかなり積極的に行っていた時点でやや異色の存在と言えたが、それでもアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ諸国への投資もそれに匹敵するようなものだった。逆に言えば、政治的な独立を保っていても経済的な従属下に置かれている地域というものも存在し、これはジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンによって非公式帝国という呼称を与えられ一般化した。また、各国における海外植民推進団体の主な構成員に、実業界からの参加者はほとんど存在しなかった。 後進地域に対する列強の経済的進出は、民間よりもむしろ政府によって主導されることが多かった。その一例となるのが、後進国に対する列強からの借款である。オスマン帝国やガージャール朝、清といった旧来の大帝国は財政難を乗り切るために外国からの借款に頼るようになり、その資金の源である列強諸国に対し利権の供与や譲歩を余儀なくされるようになっていった。これら諸国の関税自主権の喪失もまた、列強の経済的進出を促すこととなった。
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