ラテンアメリカ諸国
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「ソビエト連邦の外交関係」の記事における「ラテンアメリカ諸国」の解説
ソ連から地理的に遠いラテンアメリカは、第二次大戦前は関係の希薄な地域で、当時ラテンアメリカ諸国で誕生したいくつかの左派・民族主義的な政権に対して、ソ連は効果的な支援は行えなかった。しかし、1959年に民族主義者のフィデル・カストロがキューバで革命に成功し、彼を打倒しようとしたアメリカの工作が全て失敗すると、ソ連はカストロに接近し、1960年には外交関係を樹立し、1961年にはカストロに社会主義宣言を行わせる事に成功した。ソ連のフルシチョフ政権はキューバに中距離核ミサイルを搬入したが、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はこれを阻止するためにキューバ経済封鎖を実施し、キューバ危機と呼ばれる全面核戦争寸前までの状態に陥った。この時はフルシチョフの妥協で核ミサイルが撤去され、頭越しの決定に反発したキューバ政府との関係は一時冷却化したが、その後も経済支援や軍事支援などでソ連はキューバを支え続け、キューバはソ連の代理としてラテンアメリカやアフリカでの民族解放闘争で大きな影響力を保った。この他、ニカラグアでは1979年に成立したサンディニスタ民族解放戦線の革命政権を支持した。
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ラテンアメリカ諸国
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「フィデル・カストロ」の記事における「ラテンアメリカ諸国」の解説
冷戦時代、アメリカの後押しを受けている反共的軍事独裁政権が多かったラテンアメリカ諸国とは、メキシコなど一部の国としか交流がなく、関係は悪かった。 1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。フィデルは1カ月にわたってチリを訪問した。訪問中にアジェンデとの信頼関係を築き、公的な助言を与えた。このため、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。1972年7月にはチリに続き、「軍部革命政権」を標榜していたペルーの軍事政権フアン・ベラスコ・アルバラードが、キューバとの国交を回復した。しかしその後アジェンデは、1973年にチリ軍部と野党が計画し、CIAが支援したアウグスト・ピノチェトのクーデターにより失脚、殺害された。 1983年10月にグレナダでクーデターが起こり、ハドソン・オースティンを首班とする革命軍事評議会が設立されると、フィデルは同政権を支援した。これに対しアメリカがグレナダ侵攻を行うと、同国内においてアメリカ軍とキューバ軍が交戦した。 冷戦末期の1987年1月には、ブラジル政府との間でホットラインを開設し、国交回復へ向けて両国関係は急展開する。以降、フィデルは中南米外交シフトを示し、冷戦終結後、ラテンアメリカ諸国で反共的軍事独裁政権が崩壊すると、キューバはブラジル、ベネズエラなど多くの国と国交を回復した。
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ラテンアメリカ諸国
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以下の連邦区(あるいは連邦直轄区)は、スペイン語とポルトガル語でDistrito Federal(略称:D.F.、英語:Federal District)と呼ばれる。 アルゼンチン首都特別区(アルゼンチン) - 1996年以降、"ブエノスアイレス自治都市"(Autonomous City of Buenos Aires)として知られる。 ブラジリア連邦直轄区(ブラジル) メキシコ連邦区(メキシコ) - 2016年に憲法が改正され、メキシコシティ(シウダ・デ・メヒコ)は州と同じ扱いになった。 ベネズエラ首都地区(ベネズエラ)
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