フルシチョフ政権
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一方フルシチョフは、ケネディが大統領選挙に当選した時から、様々なアプローチを試みていた。前年の東西首脳会談(1960年5月)をご破算にした偵察機U2型機のパイロットを釈放したのも大統領選挙後であった。彼が抱えていた問題でこの時に大きな懸案になっていたのが西ベルリン問題であった。3年前の1958年に行った西ベルリンの非軍事化・中立化の提案は完全に無視されて、この頃に東ドイツのウルブリヒト第一書記から西ベルリンの占領状態(米・英・仏)の終了、西側軍隊の撤退、西側ラジオ局とスパイ機関の撤去、西独から西ベルリンへの全ての航空アクセスの管理権の移譲などの要求が届き、どちらにしても早急にアメリカと具体的な協議に入るとウルブリヒトに回答をしていた。この1961年頃には東西に分かれた戦後の混乱が終わり、東ドイツの重大な問題は東から西への人口流出が止まらず、10年間で200万人が西ドイツへ流出して、国家の危機とさえ言われ始めた。西ベルリンはまさに自由の砦として東側の中で孤立した島であったが、この時期にはまだ東西ベルリンの間は自由に行き来が出来て、東側から西側に行く窓口であった。ウルブリヒト政権にとっては西ベルリンをどうしても東側の地域に入れて、西側の軍を追放し、空港を管理下において西へ飛び立つ飛行機を止めねばならなかった。 フルシチョフはこの年の秋にソ連共産党大会を予定しており、それまでには西ベルリン問題に一定の解決を望み、その相手が就任したばかりのケネディなら組みやすいとの判断をしていた。 しかし就任後の最初の議会での一般教書でケネディの強気の発言を聞いて、期待をそがれる形になって、3月に入った頃には頂上会談への期待は尻すぼみになっていた。2月末にトンプソン駐ソ大使がケネディの書簡を持ってきた頃には10日間も会おうとはせず、ようやく3月9日にシベリアのノヴォシビリスクに建設中の研究学園都市を視察していたフルシチョフのもとへ届けることができた。その時にはフルシチョフの熱意は薄れていた。後に分かったことは、この時期から中国とアルバニアとがソ連から離反し、中ソ対立が先鋭化しつつあった。そしてアフリカのコンゴ民主共和国では左派のルムンバ首相が暗殺されてフルシチョフは怒っていた。しかもソ連国内の視察旅行で、彼は自国の経済が全てにおいて不足していることに否応なく直面していたからである。しかもベルリンでは東ドイツからの難民の流出が毎月記録を更新していた。 ところが4月に入って、人類初のガガーリン少佐の有人飛行で地球一周をソ連が実現し、そしてアメリカがキューバに侵攻して大失敗をしたことで、米ソ関係で自分の立場が優位になったと感じていた。このピッグス湾事件でキューバに侵攻したために米ソ関係は、いったん対話ができない状態であったが、5月4日にグロムイコ外相からトンプソン駐ソ大使に電話で「今回のことからも適切な結論を引き出すべきです。…困難な諸問題を適切に解決し両国関係を改善する道を見つけるほかはないのです」とのフルシチョフのコメントを伝えて、首脳会談の打診をしてきた。
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フルシチョフ政権
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スターリンに続いてフルシチョフ書記長も反ユダヤ主義者であり、フルシチョフはユダヤ人が高い地位につくと住民から悪く見られるとし、ユダヤ人の昇進を遠ざけるなど、反ユダヤ主義的な政策をとり、ソ連では非ユダヤ民族は適性を有しているが、ユダヤ人の否定的な精神には付ける薬がなく、ユダヤ共同体の存続には懐疑的であると発言した。 ユダヤ系の作家パステルナークは当局から「個人主義的である」として出版が阻まれ、1958年にノーベル賞を受賞するとソ連作家同盟から除名され、パステルナークからソ連国籍を剥奪する運動が起こされた。 1959年10月、戦中にナチスによって3万人以上のユダヤ人が犠牲となったバビ・ヤールでスタジアム建設が計画されると、作家ネクラーソフが抗議し、1961年には詩人エフトゥシェンコが『バビ・ヤール』を書いたが、ソ連当局から弾劾された。1962年にショスタコーヴィチが交響曲第13番でバビ・ヤールを扱うと、当局は物々しく警備し、報道も規制された。エフトゥシェンコが当局の対応を批判すると、1963年にフルシチョフは「ファシストが犯した犯罪の犠牲者がもっぱらユダヤ人だけだったとなりかねない」と返答した。 1962年、イギリスの哲学者ラッセルがモーリヤックやユダヤ人哲学者ブーバーの支持を得て、フルシチョフ体制下のユダヤ人迫害に抗議した。フルシチョフ体制下では「経済的犯罪」「社会的寄生罪」という罪状で多くのユダヤ人が告発されていた。その跳ね返りとして、ソ連では、反イスラエルのキャンペーンが繰り広げられ、アイヒマン裁判はイスラエルとドイツの共同謀議であり、シオニズムはナチズムになぞらえられた。 1963年、ユダヤ系の詩人ブロツキーは祖国を裏切ったとして告発され、5年間の懲役刑を宣告されたが、ブレジネフによって大赦を得て、のちにアメリカに移住した。フルシチョフは反ユダヤ主義を学問へと押し上げようとして、1963年に出版されたトロフィム・キチェコの著書『素顔のユダヤ教』を支援した。キチェコの著書には、イスラエル兵がナチスの鉤十字やプロイセンの鉄兜を被ったカリカチュアが掲載され、ユダヤ部族は自分たちが動物の子孫であると考え、またカナーンに侵入した後、カナーンの住民を皆殺しにしたと書いた。
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