戦後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:12 UTC 版)
「フェルディナント・ポルシェ」の記事における「戦後の混乱」の解説
終戦の時ポルシェはツェル・アム・ゼーにいた。ポルシェ自身はナチス党の政治理念には反対であったが、ヒトラーと極めて密接な関係にあったこと、事実として枢軸側の戦力に多大な貢献をしたことからドイツ敗戦後の1945年6月に戦争犯罪人としてアメリカ合衆国軍によりヘッセン州に連行され、有名人戦犯容疑者収容所となっていた古城に収容された。アルベルト・シュペーアによればポルシェは「政治と全く関わりがなかったのだから収容は無意味だ」とされ、丁重に扱われてある程度の自由が許されており、また数週間後には釈放され、ツェル・アム・ゼーに戻ることになった。その帰り道、進駐軍により差し押さえられていたツッフェンハウゼンの自分の工場に寄って自分の工場を見せてもらうように指揮官に頼んだが、断られた。 フランスでの国民車構想計画について「フォルクスワーゲンの設計者の助言を得たい」とフランスから招待されて義理の息子フェルディナント・ピエヒや秘書を伴いバーデン=バーデンに赴き、交渉に臨んだ。当初交渉は和やかな雰囲気で具体的に進んだが、フランス国内の政変により情勢が急変、「ポルシェは、戦争中フランスの工場を接収し、フランスの労働力を搾取したことに対して責任がある」などと全く根拠のない非難が吹聴され、息子とともに逮捕されて2-3週間後にパリに連行された。 パリではルイ・ルノー宅の門衛所に寝泊まりした。この時試作中のリアエンジン小型車「ルノー・4CV(1941年設計開始、1946年発表)」の設計完成への助言を求められて与えている。 まもなくディジョンの刑務所に移され、ここで1年7か月厳しい生活を送ったが、ベネディクト会のヨハネス神父の尽力により何とか生き存えられた。
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