戦後の活動から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/31 04:13 UTC 版)
戦後は敗戦直後の食糧危機において県と市の飢餓突破対策委員会委員を務め、食料供給に奔走する。1945年(昭和20年)11月に日本社会党が結成されると山梨県の農民運動家も活動を再開し、農民組合も復活した。同年12月には日本社会党山梨県連合会が発足し樋口も社会党員となる。 GHQ・山梨軍政部の主導した農地改革においては、地主と小作の間の総論を調停する農地委員会会長を務める。山梨県では山梨軍政部以外に山梨県警察部に反米活動監視のためのCIC(アメリカ陸軍防諜部隊)が駐在しており、日系二世を中心に10名ほどが常駐していた。樋口はCICが定期的に自宅を訪問した様子を証言している。1947年(昭和22年)の第一回統一地方選挙においては出馬し、4285票を獲得して第二位で当選し県会議員となる。県議会においては農地改革後の農村問題や食料問題、地場産業の育成に取り組む。また、農協の販連会長を務める。 1951年(昭和26年)の統一地方選挙においては社会党党内抗争の影響を受けて落選し、さらに同年には社会党右派県議の樋口らが自転車のネームプレート製造業者から贈賄を受け取ったとする容疑で逮捕される。 樋口の自転車鑑札事件の逮捕後に社会党山梨県連合会は左右に分裂し、樋口は社会党から離れる。社会党からの離党後は国土総合開発研究所の設立を構想し、山梨県北部山岳地帯におけるウラン鉱の開発事業に着手するが、資金難により挫折する。 その後は大衆運動のキャリアを買われて市役所から広報会の組織化を依頼され上条新居町広報会の会長となり、自治会活動に専念する。1956年(昭和31年)には甲府市広報会連合会を組織して事務局長となり、甲府市の顔役として行政と住民の間に立ち、河川の美化や河原の公園化、工場誘致や内職の斡旋事業など地元に密着した活動を行う。他に地域に関する多くの役も務めている。 97歳で死去。
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