戦後の活躍
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「モーリス・ジャンドロン」の記事における「戦後の活躍」の解説
1940年に最優秀の成績でパリ音楽院を卒業して以降、戦争のために演奏活動が妨げられていたが、戦争が終わった直後、ジャンドロンは美術史家のケネス・クラークの紹介で、パリでベンジャミン・ブリテンとピーター・ピアーズと会った。その縁で、1945年12月2日にロンドンのウィグモア・ホールでブリテンを伴奏者にしたリサイタルを行い、ソロ・デビューを果たした。同じく12月には、ワルター・ジュスキントが指揮するロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とともに、プロコフィエフの『チェロ協奏曲第1番』のイギリス初演を行った。こうしてジャンドロンのキャリアは開始した。なお、元々はチェロの弦としてガット弦を用いていたが、途中でスチール弦に切り替えている その後は、ブリテンとピアーズとの縁でオールドバラ音楽祭に出演したり、尊敬するフォイアーマンの追悼演奏会でニューヨーク・デビューを果たしたり、ユーディ・メニューイン、ヘフツィバー・メニューインの兄妹と25年以上にわたってトリオで活動したりした。 また、著名なチェリストのパブロ・カザルスと交流するようになり、プラドのカザルス音楽祭に参加して教えを受けた。のちにはカザルスの指揮で協奏曲の録音も行っている。これはジャンドロンからの要望であり、フィリップス社がジャンドロンに、ボッケリーニの変ロ長調の協奏曲とハイドンの『チェロ協奏曲第2番』をラムルー管弦楽団と録音するよう依頼した際、指揮者をカザルスとするよう伝えている。なお、この録音ではジャンドロンがドレスデン国立図書館で発見したオリジナルのスコアが用いられた。 また、チェリストとしての活動以外にも、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ラムルー管弦楽団、ボーンマス交響楽団の指揮を行った。 1990年8月20日、パリ近郊にて死去。
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戦後の活躍
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千五郎家では正重以来長らく男子が生まれなかったが、真一は子供に恵まれ、七五三(しめ。12世千五郎、4世千作。1919年 - 2013年)と政次(2世千之丞。1923年 - 2010年)の兄弟が千五郎家の芸を受け継いだ。二人はそれまでの慣例を破って武智鉄二の演出した新劇や歌舞伎に出演するなど、積極的に他芸と交わっていったため、能楽協会から退会勧告を受けたこともあった。七五三は天性の愛敬さを生かして底抜けに明るく楽しい狂言を演じて人気を博し、1989年に父と同じ人間国宝(大蔵流では3人目)に認定された。1994年隠居名の4世千作を襲名後も精力的に活動し、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章した。千之丞は兄と対照的に多才な理論家で、狂言の新作や復曲をしたりオペラやミュージカルの演出を手がけたりと、多方面での活動でも知られた。声質は父・3世千作に近い高めでよく通るものであったことから、わわしい女房として兄・七五三(やや低めでだみ声だった)の演ずる亭主をやり込めるような役柄で大いにうけた。
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戦後の活躍
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戦後に共産党の活動が再開されると、百合子は社会運動や執筆活動を精力的に取り組んだ。戦時中の執筆禁止からも解放され『風知草』(『文藝春秋』1946年9月-11月。1947年4月刊)、『播州平野』(『新日本文学』1946年3月-11月、『潮流』1947年1月。1947年4月刊)、『道標』など多くの作品を残した。波乱に満ちた生涯のうちの大部分が小説として自身の手で描き出されている。また、共産党員としては新日本文学会中央委員や婦人民主クラブ幹事を務め、共産党の指導による文芸運動や婦人運動の推進に努めた。
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戦後の活躍
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日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した。1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵と貴一をもうけた。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた。 1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを能や茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した。 次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった。1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた。1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉の山ノ内に転居し、そこを終の棲家とした。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった。 1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した。 小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした。1957年には『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、新潟県でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった。
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戦後の活躍
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1945年、傷病兵として復員した灰田は、芸名であった勝彦の名を本名にした。人気はさらに上昇し、リバイバルヒット「新雪」「燦めく星座」をはじめ、「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」とレコードの大ヒットが続く。昭和21年、高峰と日劇で公演した『ハワイの花』は、連日超満員の観客動員を果たし、まさに絶頂期を迎えるのであった。戦争のため、関係を引き裂かれていた地元ハワイのフローレンス君子と1948年に結婚。 スクリーンでは、東宝映画『歌え太陽』をスタートとして、『花くらべ狸御殿』『銀座カンカン娘』『狸銀座を歩く』など、主にミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。「立教出身者で固めよう」と自身が企画した映画『歌う野球小僧』は、上原謙、笠置シズ子らの共演により成功し、大ヒットした主題歌「野球小僧」は野球好きな灰田のテーマソングともなった。 昭和20年代後半に入っても、「アルプスの牧場」では見事なヨーデルを披露し大ヒット、その後も「水色のスーツケース」「新橋駅でさようなら」とヒットが続く。この頃、野球選手の別所毅彦、大相撲の東富士、俳優の鶴田浩二らと義兄弟の契りを交わし映画『四人の誓い』に出演して話題となる。 民放ラジオが設立されると、放送におけるコマーシャルソングが盛んに作られたが、その第一号である小西六フィルム(現・コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を歌ったのも彼であった。初期のNHK紅白歌合戦の常連大物歌手の一人でもあり、計6回出場している(詳細は下記参照)。第3回(1952年)と第7回(1956年)では白組のトリを務めた。 小林亜星は「日本のポップスの歴史は、戦前から戦後にかけて活躍した灰田勝彦さんにそのルーツをさかのぼる」と評している。
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戦後の活躍
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戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、それまで清純派として活躍していたが、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役に挑戦して新境地を開拓。1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。 この受賞により1949年(昭和24年)10月、戦後初の日米親善使節に指名され、これを機に松竹を退社して渡米し、約3ヵ月間を現地で過ごす。しかし翌1950年1月に帰国すると田中の出発時との見た目の変わりようや振る舞いが原因で、多くのメディアやファンにより大バッシングが巻き起こる(後述)。数ヶ月間鎌倉で静養した後、同年の夏頃に新東宝で小津監督の『宗方姉妹』に出演することになり、同時に木下惠介監督の『婚約指環』を撮影。しかし両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが「老醜」とまで酷評された。 この女優としてのピンチを救ったのが、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督で、彼女は1952年(昭和27年)の『西鶴一代女』に主演。田中はお春役として御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出すという女の一生を演じる。作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中は一世一代の名演を披露、女優として完全復活を果たした。溝口も同時にスランプから脱することに成功し、翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。翌1954年(昭和29年)には同じく溝口の『山椒大夫』と『噂の女』に出演した。 1953年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表。同年12月に監督デビューした後、10年間で京マチ子主演の『流転の王妃』など計6作品を撮り(詳しくは後述)、「細やかな演出」と高い評価を受けた。
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戦後の活躍
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「仮称二号電波探信儀二型」の記事における「戦後の活躍」の解説
1946年(昭和21年)敗戦後の日本国内での食糧不足に際し、GHQの許可を得た捕鯨各社により、近海および南氷洋での捕鯨が早くも再開された。これら捕鯨船団にはGHQからの監督官が同船することが義務付けられたが、南氷洋での捕鯨に際し、レーダーも持たずに操業する危険から、GHQの人員が乗船を拒否・懸念する事態となった。しかし敗戦国が漁業用とはいえレーダーを開発製造することは、戦勝国側から懸念された。 そこでGHQにより接収されていた二二号電探が注目され、1947年(昭和22年)の第二次南氷洋操業に際し、船団に搭載され、使用された。 1948年(昭和23年)の第三次南氷洋捕鯨出港前、捕鯨母船を視察した旧軍人でもある高松宮は「このレーダーは効果があるかね?僕もレーダーを使って知ってはいるが、故障が多く、(性能的にも)小さな氷山などには効果がないのではないか」との懸念をコメントとして残している。 高松宮の懸念に反し、予想外の素晴らしい効果があった、とされる文面もあり、実際に二二号電探を装備する船は増え、専用のレーダーが製造開発され、1950年(昭和25年)の第五次南氷洋捕鯨まで使用された。この間、二二号電探の保守点検と部品供給を行ったのは、旧帝国軍時代の開発者や製作担当者らであった。 捕鯨船に同乗したGHQの英国武官からは「日本はこのレベルのもの(Aスコープ)を使っているから戦争に負けたのだ。本国ロンドンではアンテナが回転して映像が画面に映る(PPIスコープ)ような、もっと良いものが市販されている」と感想を残している。 捕鯨船が島嶼に異常接近してしまう事故が起きているが、電探は故障中であったので電探の性能が低い事が原因で起きたわけでは無い。
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戦後の活躍
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熊本県教育委員会学務課、指導主事に抜擢された。御真影は焼奉式をおこない焼いたが、教育勅語はまとめて文部省に返しにいった。文部省の講堂の、熊本県と指示された位置に、小荷物同様に受納された。[どこ?]。
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