戦後の混乱から復興へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
戦況が悪化する中で労働力不足と資材の供給が制限されたため、1945年(昭和20年)の山陽無煙炭鉱の生産量は約10万トン、大嶺炭田全体でも17万トンにまで落ち込んだ。終戦後、朝鮮人労働者の帰国、連合軍捕虜の引き揚げに加え、日本人炭鉱労働者たちの一部も炭鉱に見切りをつけて離職していった。そして炭鉱に残った労働者たちも、戦時中に荒れてしまった炭鉱を前に就労意欲が低下していた。1945年(昭和20年)後半、大嶺炭田はまさにどん底状態であった。 石炭生産の回復が戦後復興の鍵となることを認識した政府は、戦後間もなくから石炭増産政策を打ち出していく。しかし無煙炭の生産回復は思うように進まなかった。理由は無煙炭最大の需要先である練炭生産の落ち込みが続いていたことにあった。戦前期、昭和に入って練炭が急速に普及していく中で生産量も増大し、1940年(昭和15年)には戦前の最高値である186万トンを記録した。しかし翌1941年(昭和16年)からは戦時体制の強化の一環として練炭工場の整理、統合が進められ、戦況の悪化の中で原料である無煙炭がなかなか手に入らなくなり、しかも空襲で工場が破壊されるなどの影響を受け、1945年(昭和20年)には24万トンにまで落ち込んだ。戦後も大嶺炭田の無煙炭は主として練炭の原料用に消費され、産出量の9割近くが練炭工業向けに出荷されていた。戦後しばらくの間、練炭製造業は不振が続き、無煙炭は供給過剰の状態が続いた。 無煙炭の供給過剰状態に追い打ちをかけたのが、1949年(昭和24年)6月の無煙炭の統制除外であった。戦後の石炭増産政策は有煙炭がメインであり、無煙炭は不利な立場に立たされることが多かったが、統制除外も有煙炭に先立って断行された。統制除外によってこれまでの保護されていた環境からの自立を迫られることになった無煙炭業界は、無煙炭が売れ行き不振であったことも重なって、人員整理、賃下げなどの経営再建策の実施に迫られた。特に中小炭鉱は影響が大きく、大嶺炭田でも賃下げの他に大明炭鉱、美豊炭鉱、榎山炭鉱、滝口炭鉱、美福炭鉱、萩嶺炭鉱では人員整理が行われた。人員整理や賃下げは炭鉱労働者の生活を直撃するものであり、大明炭鉱や榎山炭鉱などでは労働争議が勃発した。 しかし1951年(昭和26年)にはホンゲイ炭の輸入が再開され、また国内産の無煙炭の品位向上もあって、良質かつ低価格の練炭が市場に流通するようになった。戦後、特に朝鮮戦争後は人々の生活水準が向上してきていた。そのような中で良質安価な練炭は家庭燃料として歓迎され、需要も拡大し、練炭生産は低迷期を脱して増大していく。その結果、無煙炭業界は1951年(昭和26年)以降、有煙炭が不況に陥った時も好調を維持し、大嶺炭田の無煙炭生産量も拡大していくことになった。
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