昭和に入って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 19:20 UTC 版)
1924年(大正13年)から1925年(大正14年)まで、および1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで、欧米の各地を周遊している。評論活動の傍ら、父親の仕事の関係で、株式会社東京高級鋳物の取締役、株式会社東邦重工業(現在の東邦化学工業)の常任監査役、株式会社電業社(現在の電業社機械製作所)監査役、株式会社電業機製作所の監査役を兼務したが、教職などには一切就くことなく芸術的な自由人としての生活を貫いた。 第二次世界大戦後は、NHKのラジオ番組『話の泉』(放送期間 1946年12月3日 - 1964年3月31日)のレギュラー出演者となり、ダンディな語り口で茶の間の人気を博した。生涯の著書数は、再出版を除いて76冊、訳書は32冊にのぼる。趣味は野球や相撲や推理小説など幅広く、著書の内容も音楽評論以外に『西洋の汽車』『野球春秋』『ネクタイ談義』『英米探偵小説案内』など多岐にわたり、食道楽としても知られ、吉田秀和から「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評された。 1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章、1967年(昭和42年)、勲三等瑞宝章を受勲した。1977年(昭和52年)、文化功労者に選ばれた際、「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」と語った。1979年(昭和54年)1月23日、死去する。満86歳没。逝去にあたり、銀杯三号を受け、従四位に叙された。 1933年(昭和8年)から生涯を過ごした、2,700坪に及ぶ東京都杉並区荻窪の自邸跡地は、その大部分が「大田黒公園」となった。1933年(昭和8年)に建てられた仕事場が「記念館」として保存されている。 墓所は豊島区駒込の染井霊園。
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