ひき‐あげ【引(き)上げ/引(き)揚げ】
引き揚げ
自発的移動(806-1)は強制移動 1に対比される。後者は公権力によって個人が移動するように強制される場合を指す。引き揚げ 2は出身国への強制的な帰国に使われる。強制的な移動のもう一つの例は、個々人や集団全部の居住地からの追放 3である。避難(疎開) 4という用語は一般に、地震、洪水、戦争のような、何らかの破局から身を守るために全住民が移動する場合に用いられる。難民 5と通常、自分自身の意志で移動した人であるが、その移動は、自分の出身国に留まると迫害される恐れがあるという、強い圧力があったためである。移送者 6とは元の場所から公権力によって移動させられた人である。この種の移動は大規模な人口移送 7や人口の転送 7あるいは人口交換 8の結果起こることもある。
引き揚げ
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引き揚げ(ひきあげ、英語: Repatriation)とは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が第二次世界大戦で連合国に降伏したことを受け、日本の外地[注釈 1] や日本軍占領地[注釈 2] または内地のソ連軍被占領地[注釈 3] に生活基盤を有する一般(民間)日本人が日本の本土(内地)への帰還を指す[2][注釈 4]。引き揚げの対象となった者は引き揚げ者と呼ばれ、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされた。
注釈
出典
- ^ #引揚援護の記録
- ^ a b c d e f g h i j k l 河原(2011年)12ページ
- ^ 「 戦後引き揚げ 大国の思惑/国文学研究資料館・加藤准教授 全体像描く研究書」『読売新聞』朝刊2021年7月7日(文化面)。加藤聖文『海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」』(岩波書店)の紹介記事。
- ^ a b c d e f g h i j k l m #引揚援護の記録 p.1
- ^ 久しぶりの母国に感激の顔『大阪毎日新聞』昭和16年11月15日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 第二船大洋丸にはハワイの四百四十七人『大阪毎日新聞』昭和16年11月16日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ 第三船氷川丸が横浜入港『朝日新聞』昭和16年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ 蘭印から高千穂丸、門司へ帰る『朝日新聞』昭和16年11月23日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p456)
- ^ ボルネオ、マレーには浅間丸が『朝日新聞』昭和16年12月6日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p457)
- ^ 在米残留邦人、龍田丸で最後の引き揚げ『朝日新聞』昭和16年11月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p457)
- ^ “終戦の詔書”. 国立公文書館. 2024年3月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g 河原(2011年)3ページ
- ^ a b c d e “ポツダム宣言”. 国立国会図書館. 2024年3月20日閲覧。
- ^ 井出孫六 2008, p. 82
- ^ 井出孫六 2008, p. 83
- ^ a b 井出孫六 2008, p. 86
- ^ 井出孫六 2008, p. 87
- ^ 『引揚援護の記録』引揚援護庁、1950年3月31日。doi:10.11501/1707048 。
- ^ a b #引揚援護の記録 p.11-13
- ^ a b c d e f g h i #引揚げと援護三十年の歩み pp.149-167
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 河原(2011年)4ページ
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- ^ a b c d e f g h i j k 厚生省援護局(1978年)145ページ
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- ^ a b 朝日新聞夕刊 2015b, 1面「シベリア引き揚げ資料・東寺百合文書」
- ^ a b c 朝日新聞朝刊 2015d, 34面「守った遺産 世界へ未来へ」
- ^ a b c 朝日新聞夕刊 2015c, 9面「抑留、風化させぬ」
引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:26 UTC 版)
昭和21年(1946年)7月24日、在満邦人500名余りと共に新京を出発し、数日かけて、遼寧省の葫蘆島に到着。葫蘆島で三週間ほど野宿して引き揚げ船を待ち、乗船して五日目に博多に上陸。(葫蘆島在留日本人大送還) 父母のいる日本の国が(敗戦を経て)どのようになっているかが心配でした。(中略)日本の国を建て直すことがもっと大切なのではないかと考え、(中略)日本民族の血と(中略)日本を愛する心が帰国を決心させることになりました。(中略)水平線上遥かに日本の国土が見えてきたときには、とめどもなく涙が流れてきました。 — 立石賢治 昭和21年(1946年)8月29日、七年ぶりに北海道の静狩に帰郷した。
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引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:57 UTC 版)
ポツダム宣言により、日本の主権は本州、北海道、九州、四国ならびに連合国の決定する諸小島に限定され、それ以外の地域に居る在留邦人は引き揚げされることになった。その際に、日本の主権が及ばなくなった樺太、千島列島、朝鮮、琉球(北緯29度以南の南西諸島)、台湾等の地域との対比で、引き続き日本の主権が及ぶ地域を指して「内地」または「本土」と称した。
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引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 12:25 UTC 版)
「麻山事件」、「葛根廟事件」、「牡丹江事件」、および「戦後開拓」も参照 こうした状況から、老幼婦女の集団となっていた開拓団は自力での逃避行を強いられた。幸運にも満洲越冬を経験せずに帰還できた開拓団はわずかに6団で、その他はハルピン等の収容所、あるいは退路が絶たれたため開拓地での越冬を経験した。 悪化する状況に帰国を諦め、自決を選んだ女性らも居た。哈達河開拓団の麻山事件など、集団自決は確認されているだけで48団にのぼり、この他に家族単位での自決も目撃されている。『満洲開拓史』(1980年)では、自決による犠牲者は数千人と記録されている。また子供の犠牲も多い。『長野県満州開拓史』(1984年)によると、大日向村開拓団にいた16歳以下の子供の犠牲では、年齢が低いほど犠牲者が多いことが分かる。そうした犠牲は悲惨な逃避行によるものが多いが、中には已むに已まれず母親が自ら手を掛けた事もあったとされる。その他にも栄養失調や発疹チフスなどで命を落とすことも少なくなかった。 1946年5月から開拓団の引き揚げが始まるが、それまでに全滅した開拓団は10団、10名以上の犠牲を出した開拓団は100団を数えた。1956年の外務省の調査によると、終戦時の全在満邦人のうち約14%が開拓民であったが、死者数ではその約50%が開拓民であり、開拓団が特に過酷な条件に取り残されたことが分かる。また、『長野県満州開拓史』(1984年)によれば、開拓地で徴用された男性のうち復員出来た割合は約78%であったが、開拓団に残った在団員が引き揚げ出来た割合は約42%でしかない。犠牲者の男女比は明らかではないが、陳野は在団員の犠牲の多くは女性と子供であったであろうとしている。 また、故郷に帰っても、戦後の混乱の中で元開拓民には住む家も耕す畑もなく、歓迎されることは少なかった。1945年には引揚者の生活難救済の為に緊急開拓事業が閣議決定され、これにより、北海道などに再入植した人も多い。また、召集された夫のほうが帰国が早い事も多く、中には妻の帰国を待たずに再婚していた例もあった。
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引き揚げ
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2003年6月10日に航空会社の機長(Anders Jallai)と歴史家の(Carl Douglas)はスウェーデンの企業Marin Mätteknik ABの協力を受けてソナーを使用して水深126 m (413 ft)で撃墜された DC-3 の残骸を発見した。しばらく後にはカタリナ機も公式の墜落地点から22キロメートル (14 mi)東の地点で発見された。 事件から52年後の2004年3月19日に DC-3 の残骸は約200 m3 (7,100 cu ft)の沈殿物と共に凍結されて引き揚げられた。この残骸は調査のためにムスコ海軍基地に運搬/保管され、2009年3月13日に展示のためにリンシェーピングにあるスウェーデン空軍博物館に運ばれた。2009年5月5日に79001機の1/12模型が空軍博物館へ貸与された。
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引き揚げ
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「ニュース (装甲艦)」の記事における「引き揚げ」の解説
沈没からおよそ100年後、ニュースの船体下部が発見された。1963年におよそ15000点の遺物と共にニュースは引き揚げられた。遺物は丁寧に分類された。ニュースの船体はキンストンの川沿いにある州立CSS ニュース歴史施設で展示されていた。2013年からはキンストンのダウンタウンにある、空調の整ったCSS ニュース南北戦争解釈センター(CSS Neuse Civil War Interpretive Center)に展示されている。 現時点までで、沈没した南北戦争時の装甲艦のうちで引き揚げられたのは4隻のみである。すなわち、ニュースに加えて、CSS マスコギー、USS モニター及びUSS カイロである。残りの沈没した両軍の装甲艦は、沈没場所は判明しているが、そのままにされている。他の艦艇では、南軍の潜水艇H・L・ハンリーが引き揚げられ大規模な修復が行われている。
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引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 08:37 UTC 版)
「U534 (潜水艦)」の記事における「引き揚げ」の解説
U-534は、"ダイナマイト・オーゲ"のあだ名を持つデンマーク人の沈没船ハンターのオーゲ・イェンセン(Aage Jensen)により1986年に発見されるまで41年近くの間海底に横たわっていた。1993年にデンマークのメディア富豪であるカルステン・リー(Karsten Ree)がスポンサーとなり、ナチスの金塊(Nazi gold)の噂話とメディアによる熾烈な取材合戦の中で潜水艦が引き揚げられた。金のお宝への望みは絶たれ、潜水艦には驚くべきようなものは何も搭載されていなかった。
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「引き揚げ」の例文・使い方・用例・文例
- 船は船舶昇降機を用いて水中から引き揚げられた。
- 彼は日本を引き揚げて自国のアメリカへ帰国した。
- あなたたちはこの国から引き揚げてください。
- (引き揚げるために)テント[キャンプ]をたたむ.
- 沈没船を引き揚げる.
- 同勢をまとめてそこそこに引き揚げた
- 船を引き揚げることはその費用のために非実用的であると判明した
- 重力に反しているように空中に引き揚げ、浮かせるようにする
- 港の近くで引き揚げられる船
- (敵味方が)互いに軍を引き揚げる
- 浜辺に引き揚げられた船
- 修理する船を陸上に引き揚げる装置
- 漁網を船上へ引き揚げる機械
- 軍隊を引き揚げること
- 台風シーズンの前に引き揚げを開始
- 6月18日,日本と中国は,中国の排他的経済水域で沈没した不審船を引き揚げることで最終的に合意に達した。
- 日本は,6月25日に引き揚げ作業を開始した。
- 台風シーズンの前に引き揚げ作業を始めるために,小泉純一郎首相が川口順(より)子(こ)外相に対して,できるだけはやく中国との合意に達するよう指示していた。
- 引き揚げ作業中,日本と中国は,中国の漁民への補償について話し合いを続けていく。
- 北朝鮮の工作船とみられる船を引き揚げ
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