ニコバル‐しょとう〔‐シヨタウ〕【ニコバル諸島】
ニコバル諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/26 09:54 UTC 版)
ニコバル諸島(ニコバルしょとう、Nicobar Islands)は、インド洋のベンガル湾に浮かぶ22の島々からなる諸島。北方にあるアンダマン諸島(一部除く)と共に、インドの連邦直轄地域アンダマン・ニコバル諸島を成している。
- ^ Kumar et al(2007)Y-chromosome evidence suggests a common paternal heritage of Austro-Asiatic populations;BMC Evolutionary Biology 2007, 7:47 doi:10.1186/1471-2148-7-47
- 1 ニコバル諸島とは
- 2 ニコバル諸島の概要
ニコバル諸島 (1756年–1848年/1868年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 09:49 UTC 版)
「デンマークの植民地」の記事における「ニコバル諸島 (1756年–1848年/1868年)」の解説
1754年から1868年にかけて、現在のニコバル諸島に「フレデリク諸島」(Frederiksøerne)あるいは「新デンマーク」(Ny Danmark)という名の植民地を建設する試みがなされた。
※この「ニコバル諸島 (1756年–1848年/1868年)」の解説は、「デンマークの植民地」の解説の一部です。
「ニコバル諸島 (1756年–1848年/1868年)」を含む「デンマークの植民地」の記事については、「デンマークの植民地」の概要を参照ください。
ニコバル諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:02 UTC 版)
「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事における「ニコバル諸島」の解説
カーニコバル島では、1944年末に糧秣の重点補給作戦が決行されて成功していたため、アンダマン諸島に比べて軍糧に余裕があったが、1945年1月にカーニコバル島での決戦を想定してアンダマン諸島から兵員が増強されたこともあり、1945年4月頃には食糧不足が深刻化した。食糧の支給量が極端に減らされ、主食の米飯のかわりにサツマイモが支給され、島内の蛇やトカゲまで捕えて食べるようになった。日本軍は終戦まで食いつなぐことができたが、島民は主食としていた椰子の林が飛行場などの開発のために伐採されていたため、食糧事情はより深刻だった。1945年4月頃から、住民による軍糧米の盗難事件が多発するようになった。 ナンコーリ島でも英連合軍による空爆の激化により食糧難をきたし、日本軍は食糧の支給量の引下げを行っていた。同島では原住民が主食としていた椰子やバナナの採取を禁じるなどしていたため、他島に比して島民に犠牲を強いることは少なかったとされる。
※この「ニコバル諸島」の解説は、「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の解説の一部です。
「ニコバル諸島」を含む「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事については、「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の概要を参照ください。
ニコバル諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:02 UTC 版)
「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事における「ニコバル諸島」の解説
1945年7月、カーニコバル島が3回目の英軍機動部隊による攻撃を受けた際に、日本軍は、英軍が上陸してきた場合に住民が英軍に通じることを警戒して現地住民の指導者ら約200人を島の中央部に軟禁した。ちょうどそのとき軍需米を盗もうとした現地住民をスパイ容疑で拷問して「日本軍が軟禁している島の指導者らに指示されてスパイ行為を行った」旨を自白させ、自白に基づいて同年7月から8月にかけて80余人の現地住民を逮捕・拷問し、拷問により4人を死亡させた上、スパイ容疑者として81人を処刑した(カーニコバル島事件)。 ナンコーリ島では食糧の面で現地住民に犠牲を強いることが少なかったため、戦後に戦争犯罪として問題になった事件はアンダマン島に比べてかなり少なく、3件に止まった。
※この「ニコバル諸島」の解説は、「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の解説の一部です。
「ニコバル諸島」を含む「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の記事については、「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ニコバル諸島のページへのリンク