洞爺丸事故とは? わかりやすく解説

洞爺丸事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 06:25 UTC 版)

洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年昭和29年)9月26日青函航路台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人[注 1]に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった。


注釈

  1. ^ これは岩波書店の岩波総合年表もしくは本記事末尾に示した参考文献『洞爺丸転覆の謎』に記載されている数字であり、他にも公的機関の発表や新聞社・年鑑などの文献において1139人、1153人、1171人、1175人など様々な数字が存在している。本文にて触れる他の連絡船4隻合計の犠牲者数についても同様である。
  2. ^ 近藤は三等運転士(当時は航海士を運転士と呼んだ)の頃から気象に関心が強く、自ら天気図を書いて船長や一等運転士に見せて回っていたことから「天気図」のあだ名があったという。事故当日は本来の洞爺丸船長が休暇を取得したため、近藤が交代で乗務していた。
  3. ^ 「波」とは波浪階級のことで8は「非常に荒れている」を示し波高9 - 14mとなる。通常航海では最高ランクに当たる9(「異常な状態」)はなく、洞爺丸が沈没直前に打電したときでも8であった。動揺も20度を超すと何かに掴まっていないと立っていられない。
  4. ^ 実際に14時40分に青森を出航した十勝丸は18時50分頃函館港外に碇泊している。
  5. ^ 函館海洋気象台でも「台風の目」を観測したとして札幌管区気象台に通報している。
  6. ^ 一方、羊蹄丸の船長は、風が弱くなったのは台風の目に入ったことに由ると見て、出航を延期した。結果として羊蹄丸は沈没を免れている。
  7. ^ 最初の気象衛星は1960年にアメリカが試験的に打ち上げた「タイロス1号」である。
  8. ^ 函館港は天然の良港であり、地勢的に奥まっているため、通常、波浪は穏やかである。だが、南南西の方角のみは日本海に向けて開いており、「対岸は能登半島」とも表現される状態となっている(『洞爺丸転覆の謎』p.17)。つまり、南南西の強風が吹いた場合、日本海中部で発生した大波がまともに函館湾に進入することになる(浅井栄資・巻島勉 『気象と海象』 天然社 1963年初版<)。
  9. ^ 洞爺丸は粉末化した石炭を人力でボイラーに投入していた。
  10. ^ 打電された地点の水深は海図上では12mある(洞爺丸の喫水は5m)ことから座礁自体が想像できないことであり(波浪のため海底に砂が堆積していたと思われる)、ましてや座礁して着底している船舶がさらに横倒しになるとは、想像できなかった。
  11. ^ 七重浜駅から救難本部に遭難者漂着の報告が入ったのは23時15分頃。偶然付近を通りかかった運送会社のトラックが生存者を乗せて万代町の交番に届け出たのが23時35分頃。受け付けた警官は最初「洞爺丸ってのは青函連絡船だろう。あの船が沈むことがあるものか。いい加減なことを言うと承知しないぞ」と言ったといわれる。また、洞爺丸に隣接する形で第六真盛丸(2209トン、大阪・原商船所属)が座礁したが、暴風によるアンテナ線切断により自船のSOSの送信も洞爺丸のSOSも受信できず、洞爺丸沈没を知ったのは非常配置中の船員が最初に救助した二等機関士と乗客各1名からであった。その後暴風の中アンテナ線の張り替えに成功し、0時18分石狩丸を通じて救難本部に通報。20名を救助している。
  12. ^ 浅井総支配人一行と同じ国鉄本社での会議に参加予定ではあったが、都合により洞爺丸では同行せず後続便での上京を予定していた。
  13. ^ 出航見通しが不明だったため青森5時20分発急行「みちのく」特別二等と18時40分発急行1202列車(「特殊列車」)一等寝台の二段構えの手配をするとともに、千歳発の航空機も検討していた。
  14. ^ 沈没は免れたとはいえ単独では航海不能となってしまい、ドック入り・修理を経て航行に供することが出来るまでに数日を要した。
  15. ^ 摩周丸浦賀船渠で定期検査でドック入りしていたことから台風に遭遇せず、事故の後に検査を早めさせて事故から1か月後に青函航路に復帰した。
  16. ^ これまではどんな荒天時でも、車両甲板入口付近を濡らす程度しか海水の侵入がなかったため、経験則として車両甲板全体に海水が滞留する事態は考えられていなかった。
  17. ^ 後日襟裳岬沖と宮古沖で遺体が発見されている。
  18. ^ 内訳は、乗客1,151名中1,041名死亡(米軍関係者含)、未発見遺体33、生存者110名。乗員111名中73名殉職、未発見遺体3。生存者18名。
  19. ^ 未発見遺体は無し。
  20. ^ 2017年時点ではドニャ・パス号(諸説あり)、ジョラ号(戦争により沈没した船舶ではヴィルヘルム・グストロフゴヤ)などの犠牲者数が上回っている。
  21. ^ 日本初の気象レーダーが大阪管区気象台に設置されたのは、この事故の起こるわずか25日前の9月1日のことである。また洞爺丸事故より7日前に関東地方に上陸した台風第14号に対し、気象研究所のレーダーが台風眼をとらえている。
  22. ^ アメリカ軍はボーイングB-29などの大型飛行機を改装して台風の中心に進入させて気圧や風速の観測を行っていた。危険ではあるが実測値が得られるため現在でも北大西洋のハリケーンに対して行われているが、北太平洋の台風に対しては予算削減のため1987年から中止されている。日本には現在に至るまで気象観測機はない。
  23. ^ 最終的な気象状況の解析には2年を要したという記録がある
  24. ^ 当時函館地方海難審判庁は旧函館区公会堂内に置かれており、海難審判についても同公会堂にて行われた。
  25. ^ つまり、洞爺丸にとってまさしく最悪の波であった。
  26. ^ 船首から船尾にかけて船底両舷設けられる鰭であるが、洞爺丸のものは長さ43m、幅60cm、厚さ16mmである。
  27. ^ 洞爺丸事故の翌年(1955年)5月に発生した紫雲丸事故で引責辞任した長崎惣之助の後任の日本国有鉄道総裁。
  28. ^ 大雪丸や摩周丸等の車載客船についてはボイラー燃料の重油転換による重油燃焼装置の設置、青函丸や石狩丸といった車両渡船については自動給炭機の設置。
  29. ^ 殉職船員については空襲による戦没船員とともに函館山麓の「青函連絡船海難者殉難碑」に合祀されている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 日本の重大海難汽船洞爺丸遭難事件 国土交通省海難審判所
  2. ^ 坂本幸四郎『青函連絡船』p151 朝日イブニングニュース社1983
  3. ^ 『台風との斗い』p9,p19 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  4. ^ 坂本幸四郎『青函連絡船』p125、126 朝日イブニングニュース社1983
  5. ^ 田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p51、52 成山堂書店1997
  6. ^ 田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p52 成山堂書店1997
  7. ^ 『洞爺丸台風海難誌』p218 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  8. ^ KE生「駐留軍専用列車(西海・筑紫・十和田)」『鉄道ピクトリアル』15巻8号p58-62 1965
  9. ^ 古川達郎『鉄道連絡船細見』p145-149 JTBパブリッシング2008
  10. ^ 田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p51 成山堂書店1997
  11. ^ 田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p54 成山堂書店1997
  12. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.54
  13. ^ 浅井栄資・巻島勉 『気象と海象』 天然社 1963年初版
  14. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.60
  15. ^ 上前淳一郎著 洞爺丸はなぜ沈んだかP141
  16. ^ 昭和34年2月9日高等海等判庁裁決(昭和31年第二審第21号)汽船洞爺丸遭難事件 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会
  17. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.106
  18. ^ a b 『洞爺丸転覆の謎』p.114
  19. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.58
  20. ^ 古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966
  21. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988
  22. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.64 - p.65 、p129 十勝丸の乗員が沈没の瞬間を目撃していたとされる。
  23. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.83 -、p.129
  24. ^ NHK社会部 『台風に備える』 日本放送出版協会 1972年
  25. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.129
  26. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.85 -、p.129
  27. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.88 -、p.129
  28. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.62
  29. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.66
  30. ^ 国立国会図書館 (1954年9月29日). “第019回国会 運輸委員会 第40号”. 2016年11月27日閲覧。
  31. ^ 平成27年度 第2回 重要文化財旧函館区公会堂 保存活用計画検討委員会 配布資料” (PDF). 重要文化財旧函館区公会堂保存活用計画検討委員会. p. 19 (2016年1月19日). 2017年5月25日閲覧。
  32. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.154
  33. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.155
  34. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.156
  35. ^ 一色義子『デーン・リーパー』教会新報社、192-204ページ
  36. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.72、p.80
  37. ^ 郵政省編 『続逓信事業史 第三巻 郵便』 前島会、1960年、p.416
  38. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.107 - 108
  39. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.119
  40. ^ トンネルメモリアルパーク”. 北海道松前郡福島町. 2019年8月25日閲覧。
  41. ^ 映倫データベース『あゝ洞爺丸』



洞爺丸事故

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西塚十勝」の記事における「洞爺丸事故」の解説

1954年9月26日移動のため函館から青函連絡船4便に乗船予定だった。切符持っていたが、知人誘われて湯の川温泉での宴会出席する。ところが宴会深夜まで続いてしまい席を立ちそびれ、その4便洞爺丸乗り遅れた洞爺丸出港した後台15号の強風によって七重浜沖で転覆死者行方不明者あわせて1139人という大惨事になったが、西塚遭難免れた

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