洞爺丸以外の事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:36 UTC 版)
当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となったが、沈没は免れた。しかし港外に錨泊・踟蹰(ちちゅう)した船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没した。その5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船である。 洞爺丸のほかにも、函館港外で碇泊した僚船北見丸、日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸、第十二青函丸の6隻でも同じような状況が発生して、石狩丸、大雪丸、第十二青函丸は危機を逃れたものの、他の4隻は函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)。開口部である車両甲板に海水が浸入し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎ切れないという、気付きそうで気付かれることのなかった連絡船の構造上の問題が浮き彫りになった。 特に第十一青函丸は、戦時標準船のため船体に使用されていた材質が脆いうえに、事故直前の6月から9月にかけて行われた船底補強工事で、かえって船体が歪み強度低下を生じさせたといわれ、大波を受けた衝撃で一気に船体が3つに破断した。 また、遭難した5隻は車両を積載していて、遭難を逃れた船は空船だった。車両を満載していたことによって重心が高くなっていたのに加え、車両甲板に海水が侵入し始めた際に、車両甲板に開口している機関室やボイラー室への換気口を閉鎖しようとしたが、車両が邪魔をしてこれらの開口部の閉鎖が完全に行えず、機関室等への浸水を防げなかったことが沈没の遠因となっている。 当時の函館湾内の波の波長は洞爺丸の水線長115.5mより僅かに長い約120mであり、この場合車両甲板へ流入する水の量が極端に増大し、しかも排出されにくくなることが後の調査で判明している。そのため、以後の連絡船は防水を徹底させるため車両積込口に防水扉を設置、さらに生き残った洞爺丸型3隻については下部遊歩甲板の角窓を水密性に優れた丸窓に交換、石炭積卸用の開口部を閉鎖するため燃料の重油転換も図られる。 第十一青函丸(2,851トン):19時57分「停電に付き、後で交信を受ける」との通信を最後に途絶。後に波浪による船体破断のため沈没。乗員90名殉職。未発見遺体は44。全員が死亡したため正確な時刻は不明だが殉職者の時計から20時頃と推定されている。 北見丸(2,928トン):22時35分葛登支灯台沖にて転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名殉職、未発見遺体29。生存者6名。半数は行方不明で太平洋に流されたと見られる。 洞爺丸(3,898トン):22時43分七重浜沖600mにて座礁。後に転覆。22時41分頃、「SOS de JBEA 洞爺丸、函館港外青灯より267度8ケーブル(航海用語で長さ・距離の単位)の地点に座礁」と発信、直ちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館海保局が応答。「本船、500kc(キロサイクル。当時の無線周波数単位で現在のキロヘルツと同一)にてSOS、よろしく」が最後の打電となった。乗客・乗員1,314名中1,155名死亡、生存者159名。 日高丸(2,932トン):23時32分SOSを打電中、23時40分防波堤灯台西方1.5kmにて転覆沈没。乗員56名殉職、未発見遺体2。生存者20名。最後の電文は「SOS de JQLY(=日高丸) 函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にて遭……(以下途絶)」 十勝丸(2,912トン):23時43分葛登支灯台沖8kmにて転覆沈没。乗員59名殉職、生存者17名。 洞爺丸以外の4隻が函館港外での停泊を選択した背景には、台風から避難する船舶で港内が混雑していることもあったが、当時港内ブイに係船されていた貨物船エルネスト(アーネスト)号(イタリア船籍・7,341トン)が16時30分頃港内で走錨事故を起こしたことも背景にある。この時函館港内にある船舶では最大だったエルネスト号は5月にメキシコから石炭を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損、函館に回航後スクラップ前提の状態で係留されており、荒天操船に必要な人員がいなかった。連絡船の船長たちはエルネスト号が再度走錨した時に、狭い港内でかわすことに不安を感じていたといわれている。 また、沈没には至らなかったものの、アメリカ海軍のLST-1級戦車揚陸艦LST-546号(2,319トン)が座礁して難を逃れた、などの記録が残っている。更に海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」も二次遭難している(乗員は全員救助)。 一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった。 台風は、予想と異なり、渡島半島を通過せず日本海側を進んで北海道北西岸に接近、しかも速度を大きく落としさらに発達、南西に開口した函館湾には、台風の危険半円内に入ったこともあって暴風と巨大な波が長時間にわたって来襲することになった。また、台風の目と思われた晴れ間は台風の前にあった閉塞前線の通過によるものであった。しかし、この時代にはまだ気象衛星はなく、気象レーダーはようやく一部で運用に達した段階であり、また、気象観測機は在日アメリカ軍任せであり、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは非常に困難なことであった。また事故後に行われた気象データの解析も困難をきわめることになった。 なお、閉塞前線により一時的な晴れ間が見えたということから想像されるように、近年の研究によると、洞爺丸台風が函館西方海上に達していた時には既に温帯低気圧になっていた可能性が高いと推定されている。 この特異な台風はその他にも西日本で約300名の死者行方不明を出すなど、各地に甚大な被害を残しており、後に「洞爺丸台風」と命名された。
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