洞爺丸事件後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:15 UTC 版)
1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、青函連絡船は、洞爺丸のほか、第十一青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の計5隻の連絡船を失った。台風通過後の運航は、翌9月27日、青森在港で難を逃れた羊蹄丸による、遅れ3便(青森第2岸壁7時55分発 函館第2岸壁12時25分着)から再開され、渡島丸(初代)による、遅れ61便(青森第1岸壁8時30分発 函館第1岸壁14時10分着)がそれに続いた。上り便は第十二青函丸 による、1202便(函館第1岸壁13時20分発 青森第1岸壁18時00分着)から再開され、折り返し羊蹄丸による、遅れ6便(函館第2岸壁17時03分発 青森第2岸壁21時34分着)も運航され、計2往復となった。9月28日には、第八青函丸が変72便から、 第七青函丸が変64便から復帰し、石狩丸(初代)も変80便から復帰して、上り8航海、下り5航海が運航された。9月29日には、第六青函丸が変62便から復帰し、10往復の運航となった。 10月1日には、下関に係船されていた元関釜連絡船 徳寿丸 が青森へ回航され、3便(青森第2岸壁6時20分発 函館第2岸壁11時35分着)から就航し、上り11航海、下り13航海が運航された。10月8日には、洞爺丸台風で航行不能となり修理工事のため休航中であった大雪丸が3002便から復帰し、10月10日には浦賀船渠から戻った摩周丸が22便から復帰、10月14日には室蘭または戸畑から国鉄川崎火力発電所への石炭輸送に従事していた 宗谷丸が貨物便102便より就航した。10月10日運航ダイヤ改正で、最大、旅客便5往復、貨物便11往復の計16往復が設定された。 1955年(昭和30年)9月には、急遽新造の車両渡船檜山丸(初代)、空知丸(初代)が就航し、同年10月1日からは旅客便5往復、貨物便13往復の計18往復に1往復の臨時便の設定となった。その後、1956年(昭和31年)4月と8月には、洞爺丸台風で沈没後、浮揚修復された 日高丸(初代)、十勝丸(初代)も復帰した。 洞爺丸の代船として3年間、運航された徳寿丸は、1957年(昭和32年)8月31日で運航終了し、9月8日、下関に向け函館を去った。これに代わり、10月1日には洞爺丸の代替船として建造された車載客船 十和田丸(初代)が就航し、再び車両航送できる船14隻の体制に戻ったが、折りしも、なべ底不況で、しばらくこの便数に変化はなかった。なお1958年(昭和33年)度の貨物輸送量は前年度比96%の439万トンに留まったが、旅客輸送人員は景気動向に関係なく、前年度比109%の263万人に増加していた。
※この「洞爺丸事件後」の解説は、「大雪丸 (初代)」の解説の一部です。
「洞爺丸事件後」を含む「大雪丸 (初代)」の記事については、「大雪丸 (初代)」の概要を参照ください。
- 洞爺丸事件後のページへのリンク