第八青函丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)
第4船。本船から資材節減と敵潜水艦から発見されにくいよう、煙突の長さをそれまでの約3/4に短縮し、船尾両舷には爆雷投下口が設置された。 終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港北防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森第1岸壁でアメリカ軍用の貨車積み込み中、ボイラー室船底に貯留した大量のビルジ(海水混じりの汚水)が、ヒーリング操作による船体傾斜で、自由水として急速移動し、船体が左舷に傾き過ぎて灰捨孔より浸水、係留状態のまま大傾斜で沈座してしまった。1946年(昭和21年)1月1日、アメリカ海軍コンサーバー号の援助のもと浮揚。函館船渠で修復工事施工され、このとき甲板室前後の船橋楼甲板にそれぞれ木造板張りの旅客用甲板室(デッキハウス)が造設され、客載車両渡船(デッキハウス船)とした。後年、これは鋼製のデッキハウスに更新されている。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 終航直後の1964年 (昭和39年)12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船橋楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された。この試験が1965年 (昭和40年)9月4日の渡島丸(初代)終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。 終航後に船体は関西の某造船所にて浮き桟橋として使用されていたと言われている。
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