壊滅状態の青函航路とは? わかりやすく解説

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壊滅状態の青函航路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)

第五青函丸」の記事における「壊滅状態の青函航路」の解説

1945年昭和20年7月1415両日空襲で、青函連絡船当時運航中の全12隻が航行不能となる壊滅的被害こうむったが、比較損傷軽かった第七青函丸第八青函丸は、7月25日29日復帰でき、第六青函丸座礁炎上しながらも、戦後離洲浮揚修復され1947年昭和22年2月に再就航できた。しかし復帰できたのはこれら3隻だけで、車載客船翔鳳丸型4隻を含む残る9隻の連絡船失われた一方戦時中着工されながら、建造中に終戦迎えたW7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)とH1(石狩丸)の3隻は、一時工事中になったものの、その後工事再開続行され1945年昭和20年9月28日と翌1946年昭和21年5月2日7月6日順次竣工した。これら終戦はさんで建造工事続行された船も「続行船」と呼ばれた。 この壊滅状態の青函航路に、1945年昭和20年8月15日終戦以降多く引揚げ者復員者、徴用解除帰郷者、朝鮮半島中国大陸への帰還者、さらに食糧買い出し人々殺到した貨物減少したものの、当時本州北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物石炭輸送継続迫られていた。 終戦時青函航路運航できたのは、1945年昭和20年7月25日から傭船中の船舶運営会所属大阪商船樺太丸(元関釜連絡船 初代 壱岐丸1,599総トン)と第七青函丸第八青函丸の2隻の車両渡船だけで、客貨ともその輸送力不足は深刻であった樺太丸には定員超過900名、旅客設備未設置の第八青函丸にも1,100名もの旅客乗せることが常態であったこのような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)を、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を、8月24日からは関釜航路貨物船2代目壱岐丸(3,519.48総トン)を就航させたが、この2代目壱岐丸一般型貨物船のため、船艙二段仕切って客室とし、ここに2,100名もの旅客収容し樺太丸や暁南丸で客室だけでなく船艙にも多く旅客収容せざるを得なかった。11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸就航させたほか、多数商船機帆船旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱期旅客輸送対応したが、これら一般型船舶では貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足解決にはならなかった。なおこの時期の1航海平均乗船者数は2,550名にも達していた。 この混乱の中、第七青函丸1945年昭和20年8月30日函館港防波堤衝突して長期休航し、その復帰日の同年11月28日には第八青函丸青森港で沈座する事故発生し混乱に輪をかけた。

※この「壊滅状態の青函航路」の解説は、「第五青函丸」の解説の一部です。
「壊滅状態の青函航路」を含む「第五青函丸」の記事については、「第五青函丸」の概要を参照ください。

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