壊滅状態の青函航路
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1945年(昭和20年)7月14・15両日の空襲で、青函連絡船は当時運航中の全12隻が航行不能となる壊滅的被害をこうむったが、比較的損傷の軽かった第七青函丸と第八青函丸は、7月25日と29日に復帰でき、第六青函丸は座礁炎上しながらも、戦後離洲浮揚修復され、1947年(昭和22年)2月に再就航できた。しかし復帰できたのはこれら3隻だけで、車載客船翔鳳丸型4隻を含む残る9隻の連絡船は失われた。一方戦時中に着工されながら、建造中に終戦を迎えたW7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)とH1(石狩丸)の3隻は、一時工事中断になったものの、その後工事は再開続行され、1945年(昭和20年)9月28日と翌1946年(昭和21年)5月2日、7月6日に順次竣工した。これら終戦をはさんで建造工事が続行された船も「続行船」と呼ばれた。 この壊滅状態の青函航路に、1945年(昭和20年)8月15日の終戦以降、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、さらに食糧買い出しの人々が殺到した。貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物や石炭輸送の継続も迫られていた。 終戦時、青函航路で運航できたのは、1945年(昭和20年)7月25日から傭船中の船舶運営会所属で大阪商船の樺太丸(元関釜連絡船 初代 壱岐丸1,599総トン)と第七青函丸、第八青函丸の2隻の車両渡船だけで、客貨ともその輸送力不足は深刻であった。樺太丸には定員超過の900名、旅客設備未設置の第八青函丸にも1,100名もの旅客を乗せることが常態であった。このような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)を、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を、8月24日からは関釜航路の貨物船2代目壱岐丸(3,519.48総トン)を就航させたが、この2代目壱岐丸は一般型貨物船のため、船艙を二段に仕切って客室とし、ここに2,100名もの旅客を収容し、樺太丸や暁南丸でも客室だけでなく船艙にも多くの旅客を収容せざるを得なかった。11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸を就航させたほか、多数の商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱期の旅客輸送に対応したが、これら一般型船舶では貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足の解決にはならなかった。なおこの時期の1航海の平均乗船者数は2,550名にも達していた。 この混乱の中、第七青函丸が1945年(昭和20年)8月30日、函館港防波堤に衝突して長期休航し、その復帰日の同年11月28日には第八青函丸が青森港で沈座する事故が発生し、混乱に輪をかけた。
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