【復員】(ふくいん)
demobilization.
軍隊が紛争・事変・戦争の終結に伴い、部隊を解散して人員を解放すること。
基本的には臨時に編成された予備役や民兵を対象として行われる。
紛争に際しては緊急に戦力増強が必要となるため、様々な方法で人員が集められ、新たな部隊が相次いで編成される。
しかし、そうして増設された部隊と人員は兵站に相応の負荷を与えるため、終戦後には復員され市井に戻される。
動員された個々の人員にとって、復員とは故郷への帰還を意味するので、おおむね歓迎される。
しかし、そうした人々が新たに就職して社会生活を営めるかはまた別の問題である。
復員を行うと一斉に大量の失業者が発生する関係上、十分な雇用が確保されない事がありえる。
特に、社会生活に支障を及ぼすような重篤な傷病や戦争神経症を負った退役兵士の運命は総じてあまり明るくなく、生活に窮した挙句の凶悪犯罪やアルコール・ドラッグの依存症など、新たな社会問題の種ともなる。
関連:徴兵制 戦争神経症
復員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/23 02:13 UTC 版)
復員(ふくいん)とは、軍隊の体制を「戦時」から「平時」に戻し、兵を動員状態から服務待機に戻すこと[1]。また、軍務を解かれた兵が帰郷すること[2]。
復員令(ふくいんれい)は、復員を実施するための法令である。
復員兵(ふくいんへい)は、復員した兵士のことである。復員兵、帰還兵の中には、戦場での負傷から重度の身体障害者となった者や、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っている者も少なくない(傷痍軍人)[3][4]。
各国における復員
日本

(1945年9月、場所は広島、アメリカ海軍撮影)
第二次世界大戦後の日本では、外地派遣軍は現地の連合国軍に降伏し、武装解除を受けたのち内地へ帰還させられることとなったが、このさい内地へ移動したのち復員除隊となったため、軍隊を退職することが復員と解釈されがちであるが本来は復員と除隊・退役は別である[1]。
日本海軍では「復員」ではなく、「解員(かいいん)」と呼ばれた。
日本は太平洋戦争終了後、第一復員省、第二復員省(後に合併して復員庁)を創設して復員作業にあたった。
終戦後も戦争神経症により社会復帰できず治療を受けている者は「未復員」として扱われた[3]。
米国
1924年5月に、退役軍人福祉を提供するとした世界大戦調整補償法を成立させた。世界恐慌で生活が苦しくなった退役軍人たちが一括賜金とするよう抗議するデモボーナスアーミー(一括賜金行進)を行った。また傷病兵には、ボーナスなどが支援が行われた[5]。
アメリカでは1944年に復員兵援護法(the G.I. Bill of Rights)が成立し、多くの退役軍人に高等教育の機会が開かれ、退役後の兵士たちの生活を支えている[6]。
退役軍人組織に関しては、1783年設立のシンシナティ協会(Society of the Cincinnati)、1899年設立の対外戦争退役軍人会(Veterans of Foreign Affairs)、1919年設立の米国在郷軍人会(American Legion)などがある[6]。
11月11日は復員軍人の日(Veteran’s Day)として祝日になっている[6]。
関連作品
- 小説
- 映画
- 『我等の生涯の最良の年』(1946年、ウィリアム・ワイラー監督)
- 『新悪名』(1962年、森一生監督、大映)
- 『ランボー』(1982年、テッド・コッチェフ監督)
- 『瀬戸内少年野球団』(1984年、篠田正浩監督)
- 『7月4日に生まれて』(1989年、オリバー・ストーン監督)
- 『8月のメモワール』(1994年、ジョン・アヴネット監督)
- 『サイダーハウス・ルール』(1999年、ラッセ・ハルストレム監督)
- 『ある愛の風景』(2004年、スザンネ・ビア監督)
- 『勇者たちの戦場』(2006年、アーウィン・ウィンクラー監督)
- コミック
- 『極東事変』大上明久利
- 『蜜の島』小池ノクト
参考文献
- 『復員関係史料集成 全12巻』浜井和史編、ゆまに書房、2009年。ISBN 978-4-8433-3288-7
- 陸軍動員計画令(軍令陸甲第46号) 昭18.5.17調製 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
脚注
注釈
出典
- ^ a b “陸軍動員計画令細則/其3/第13章 復員”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2023年1月13日閲覧。
- ^ 『広辞苑』第5版、岩波書店、1998年。
- ^ a b 日本放送協会. “50年間、口外してはならない 極秘調査・兵士たちの“心の傷””. NHKニュース. 2021年8月30日閲覧。
- ^ “家族が語る復員兵の『PTSD』 「みんなで死のう」戦争のトラウマで家族に向けた狂気「根っこは戦争。みんなの問題なんだ」 精神に不調きたし入院した日本兵は約1万人|FNNプライムオンライン”. FNNプライムオンライン (2024年8月18日). 2024年10月8日閲覧。
- ^ 中村, 祥司「1930年代アメリカにおける第一次大戦退役軍人の戦後補償問題」2022年10月30日、doi:10.20633/rekishitokeizai.65.1_1。
- ^ a b c 中山俊宏、舟津奈緒子. “退役軍人のアメリカ政治における役割”. 公益財団法人日本国際問題研究所. トランプ政権の対外政策と日米関係. 2021年5月6日閲覧。
関連項目
- 第二次世界大戦後の日本における復員
外部リンク
- アジア歴史資料センター 終戦70年 インターネット特別展 公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-
- 彷徨する復員兵─黒澤映画のなかの〈幽霊〉を中心に志村三代子、国際日本文化研究センター、2015-01-30
復員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 02:24 UTC 版)
終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、武装解除が行われる。9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港する。9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、26日に全員が下船。陸軍786名・海軍約840名が復員し、10月17日に残務処理が完了した。 防衛庁戦史室の調査によれば、配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)となっている。厚生省援護局資料によれば、陸軍総員3404名・戦没2533名・転属237名・サイパン後送62名・復員572名・別府入院患者207名。海軍第44警備隊資料では、海軍総員3290名・戦病死2253名・戦死175名・内地後送63名・復員799名。
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復員
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