復員そして闘病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 14:20 UTC 版)
1948年 ナホトカから舞鶴へ。3年ぶりに故国の土を踏む。戦前との国の様子の激しい変化に戸惑いながらも、出征前の学問に対する情熱は変わることなく、高等農業学校の校長や九州帝大の学長にまで相談して間もなく始まる新制大学の教職を得ようと求職活動をした。しかし年老いた両親を置いて地元を離れる決断もできず、学者への道は不首尾に終わり、県立八頭高校の化学の教員になった。 1949年 満紀子と結婚。見合いだったが、一目惚れして授業も手に付かないような入れ込みようだった。結婚と機を一にして県立八頭高校から新制の県立鳥取西高校に転勤した。この時が共学制が敷かれた初年度で、若い教師と共学で華やぐ生徒たちとの間に熱い親交が築かれ、それが後の選挙の時の応援団にもなった。 1954年 教師になって6年、教育の魅力に目覚め、教科のみならず課外活動での生徒指導に熱意を燃やす一方、抑留生活を通して感じた政治信条に従って日教組の活動にも積極的に参画していた。しかしシベリア抑留時代の生活がたたったのか重症の肺結核に罹患。かろうじてストレプトマイシンが発見されたため命は取り留めたものの、「事前に遺書を書かされるような」肺切除の大手術を受け、その後の長期療養も含めて若い盛りに2年半のブランクとなった。 1957年 前年秋に復職したが、2年前の手術時にガーゼなどを肺に残す初歩的手術ミスのため結核が再発。再手術を余儀なくされ、再び一年半に及ぶ長期ブランクで三十代の半分を無為に費やすことになった。 1960年 県立鳥取西高から県立鳥取東高に転籍となる。鳥取東高は旧制鳥取二中が前身だったので、自らの出身校だった。
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