抑留生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:53 UTC 版)
メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニックの製茶工場の施設で過ごした後、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために、師団司令部を離れてトバ湖の東北岸近くのチガルング村に移った(諸菱隊)。 この間、機関の古参の機関員は大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが、第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った。茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた。 また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていたラジャの護衛を交代で行っていた。
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抑留生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 06:53 UTC 版)
国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、箱館に到着。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に松前に移され監禁された。 8月27日から松前奉行・荒尾成章の取り調べが行われた。荒尾は、フヴォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフヴォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した。
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