抑留中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:28 UTC 版)
「スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈」の記事における「抑留中」の解説
海軍歴史家アーサー・マーダー (Arthur Marder) は抑留中のドイツ艦隊の状態を「完全な士気喪失状態の一つ (one of complete demoralization)」と表現した。そのように状況が悪化した原因を彼は4つ挙げた。それは規律の欠如、食事の水準、レクリエーションの不足、郵便物の遅延である。それらの問題が累積した結果、「筆舌に尽くしがたいほど秩序を欠いた状態に陥った艦も」生じた。11月29日、グランドフリートの副司令長官サー・チャールズ・マッデン (Charles Madden) 提督は義兄でかつての上官でもあるジョン・ジェリコー (John Jellicoe) に「発された命令はことごとく、実施に先立って下士官兵たちの委員会で検討され副署された後、都合のいいように実行されている」という内容の手紙を書いた。ある抑留されているドイツ艦艇を訪れた時、ドイツの士官たちは「羞恥のあまり何も言えない状態 (dumb with shame)」であったと報告された。食料はドイツから一月に2度送られてきていたが、単調で質もよくなかった。魚やカモメを捕らえることが食べ物を補うことになり、またいくらかのレクリエーションにもなった。また大量のブランデーも送られてきていた。イギリスは抑留されている艦艇の水兵たちが上陸したり他の艦を訪れることを禁止していたため、レクリエーションの場は乗っている艦の中に限られていた。またイギリス人は公用の時に限って訪れることが許されていた。ドイツへの郵便は最初から検閲されており、ドイツからのものも後に検閲されるようになった。ドイツ人たちには一月に巻きタバコ300本、または葉巻75本が与えられた。抑留中の艦隊にドイツ人医師はいたが歯科医はおらず、イギリス側も歯科医派遣は拒否した。 抑留された艦艇の指揮は、戦艦フリードリヒ・デア・グローセに将旗を掲げたロイター少将を通してなされた。彼は急用の際抑留中に艦艇を訪れたり命令書を届けるため自由に使用できるイギリスのドリフターを持っており、彼の部下達も乗員の本国帰還準備のために時々他の艦を訪れることが許された。「Red Guard」と呼ばれる水兵の一団が船室の天井を踏み鳴らすため睡眠を妨げられ健康を害したロイターは、3月25日に軽巡洋艦エムデンへの移動を要望した。彼の指揮下には最初2万名いたが、7ヶ月に亘って断続的に減少した。12月3日に4千名がドイツに戻り、さらに12月6日には6千名が、12月12日には5千名が去って残り4815名となり、残ったものも一月あたり約100名ずつドイツに戻った。 抑留された艦艇の処遇はパリ講和会議で議論された。フランスとイタリアはそれぞれ艦隊の4分の1を要求した。イギリスは他の海軍に対して数で勝っていたが、艦隊の再分配はその優位を崩すものであることを知っていたため、艦艇の処分を望んでいた。休戦協定の第31条で、ドイツは保有する艦艇の破壊を禁じられた。ビーティーとマッデンは共に、自沈が試みられた際にドイツ艦艇を接収する計画を承認した。キーズとレブソンは、ドイツ艦艇を接収し乗員はNigg島に抑留することを勧めたが、それは取り上げられなかった。彼らの懸念は正当化できないものではなく、実際1月にはロイターが参謀長に自沈の実現可能性について述べている。5月に予期されるヴェルサイユ条約の内容を知ると、彼は自沈の詳細な計画を準備し始めた 。どんな犠牲を払っても艦隊は自沈するだろうということをロイターは知らされていた、とエーリヒ・レーダー提督は後に書いている。6月18日にドイツへ戻る者を乗せた2隻の輸送船が出発しさらに乗員の数が減少したことで、ロイターの元には準備を行うにあたって信頼できる者が残ったことになった。その日、ロイターは命令書を送った。その第11段落には次のように書かれていた。「われわれの政府の同意無しに敵が艦艇の所有権を得ようとした時のみ、それを沈めるのが私の考えである。講和において我々の政府がこれらの艦船を引渡す条項に同意したならば、我々を今の状態に追いやった連中の永遠の不面目という形で引渡しは実現するだろう」。彼の命令は6月18日に抑留中の艦艇に届けられた。 その間に、ヴェルサイユ条約の調印が6月21日正午に行われることになった。第1戦艦戦隊は自沈の準備が行われている兆候を調査するためドイツ艦艇に大挙して乗り込む準備をしていた。6月13日、マッデン提督は行動を起こす準備のため、6月17日以降、毎日政治的評価をしてくれるよう海軍本部で直接要請したが、少し後でビーティーに「海軍本部には、講和条件に対するドイツの態度について、確かな見通しがない」と述べた。フリーマントル提督は、条約調印後の6月21日から22日の夜中にドイツ艦隊を接収する計画を、6月16日にマッデンに提出した。マッデンは19日に計画を承認したが、条約の調印期限が6月23日19時に延期されたのを知ったばかりであり、そのことをフリーマントルに伝えるのを怠った。同じ日、フリーマントルは延期のニュースを新聞で見てそれが事実だと判断した。彼は、指揮下の戦艦に魚雷攻撃に対する訓練をおこなわせるようマッデンから命じられており、それには魚雷回収のため天候が良い必要があった。6月20日夜の天候が良かったため、フリーマントルは第1戦艦戦隊に対し翌朝9時に出航するよう命じた。ドイツ艦隊接収は、彼の戦隊がスカパ・フローに戻る6月23日の夜まで延期された。フリーマントルは、スカパ・フロー出航前にロイターから休戦協定はいまだ有効であると非公式に伝えられた、と後日述べている。
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