世子との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:27 UTC 版)
昭顕世子は瀋陽で8年にわたる抑留生活を送った後、1644年に清軍と共に北京に入城し、アダム・シャールらイエズス会宣教師らと交際し、西洋の文物を携えて1645年に帰国した。既に明が滅んだ以上、人質の必要はなくなったのである。しかし、昭顕世子は親清であると見た(蛮夷である西洋の文物に心動かされた事を憎んだからという説もある)仁祖との仲は悪化していった。昭顕世子の死後、彼の息子ではなく弟の鳳林大君(ポンリムテグン、後の第17代国王孝宗)が世子となったことから、現在でも仁祖による毒殺を疑う噂がある。朝鮮ではその後も北伐論が噴出したが、清が大陸の主となった以上、不可能なことであった。
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