世子を立てる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
332年、群臣は張駿へ、涼王・領秦涼二州牧を称し、魏武(曹操)・晋文(司馬昭)の故事に倣って公卿・百官を置くように勧めた。だが、張駿は「これは人臣の言うべき言ではない。敢えてこの事を言うならば、罪は赦されぬぞ!」と取り合わなかった。しかし、その領内ではみな彼の事を王と称するようになっていた。 その後、群臣は張駿へ世子を立てるように請うたが、張駿は従わなかった。中塁将軍宋輯は張駿へ「礼において世子を立てるのは、宗廟を重んじているが故です。周成(周の成王)・漢昭(前漢の昭帝)が幼くして立てられたのは、国家継承のために国嗣は不可欠であり、皇太子を素より定めていたからです。昔、武王が国を所有すると、元王が後継の地位に立てられました。建興の初めには、まだ先王(張茂)が在位されているうちに殿下が後嗣となられました。ましてや、今は社稷はますます尊ばれ、聖躬は介立し、大業は次第に盛んとなっております。どうして後継を欠いたままでいられましょうか。臣はこれが累卵の危となると考えており、殿下は泰山のように安穏だと思っておられますが、そうではありません」と述べた。張駿はこれを受け入れ、次子の張重華を世子に立てた。 333年10月、氐族酋長蒲洪(後の苻洪)が後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して張駿に帰順した。
※この「世子を立てる」の解説は、「張駿」の解説の一部です。
「世子を立てる」を含む「張駿」の記事については、「張駿」の概要を参照ください。
- 世子を立てるのページへのリンク