世宗の遺志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 16:09 UTC 版)
世宗は普段から集賢殿学士に幼い孫である端宗の輔弼を指示したが、1450年、死期を悟った世宗は、長男である文宗も病弱で早世することを予感し、集賢殿の学士を呼んで幼い孫端宗の輔弼を遺言して死去した。河緯地も集賢殿の他の学士と一緒に世宗の遺言を奉じた。 1450年の文宗即位直後、司憲府将令に任命された。1451年、首陽大君を補佐して《陣説》の校正と《歴代兵要》編纂に参加する中職集賢殿に昇進した。文宗が崩御すると官職を辞して故郷へ隠遁した。
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