王と称する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 01:55 UTC 版)
紀元前206年、秦が項羽(項羽)に滅ぼされると、任囂の遺志通り趙佗は隣接する桂林郡・象郡に軍勢を率いてこれを併呑した。やがて紀元前203年に国号を「南越」として自ら武王と称した。紀元前202年、劉邦が項羽を討ち取って天下を統一し前漢を興すが、項羽との長年の戦いで軍隊は疲労していたために、敢えて南越への遠征はしなかったという。 紀元前196年、劉邦は楚出身の陸賈を和睦の使節として派遣した。陸賈を出迎えた趙佗は正式に南越王として印綬を受け取り、国境を長沙国とすることで、話はまとまった。その際に陸賈に対し宝玉を送った。後に陸賈はその宝玉を売り渡して、息子5人に分け与え自立資金とさせた。 前漢は呂后のとき、中央から派遣された官吏が趙佗に向かって鉄製器具の交易の廃止を申請した。趙佗はこれを南越を滅ぼそうとする長沙王の陰謀と考えた。趙佗は武帝を自称し、長沙国を攻撃して、その数県を蹂躙し、財宝と人民を奪って凱旋した。呂后は紀元前182年頃に隆慮侯の周竈に南越遠征を命じた。しかし、暑気と疫病のために士気を喪失し、呂后が死去すると、周竈は一年余で広東から全面的に撤退した。
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