王との出会い、寵姫たちの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 03:10 UTC 版)
「ネル・グウィン」の記事における「王との出会い、寵姫たちの争い」の解説
1668年、ネルがデュークハウスで上演されていた、ジョージ・エサリッジ(George Etherege、1636年 - 1692年)(英語版) の『できるなら彼女はそうしただろう』(She Wou'd if She Cou'd)を観ていた時、同じく舞台を観に来ていたチャールズ2世と出会い、それからネルは国王の寵姫になった。彼女は王のことを、「私のチャールズ3世」と呼んだ。前述のチャールズ・ハートとチャールズ・サックヴィルという過去の恋人に続いて三人目の「チャールズ」だということで、そう呼んだのである。それでも王は、彼女のユーモアのセンスと気取りのなさを気に入り、その呼び名を許した。ネルは1670年の5月8日に息子チャールズを生んだ。 しかし、1671年にネルに強力なライバルが出現した。フランス貴族の娘ルイーズ・ケルアイユ(Louise Renée de Penancoët de Kérouaille、1649年 - 1734年)だった。ルイーズはルイ14世から、チャールズ2世をカトリックにするべく密命を帯びて、1671年にイングランドの宮廷に送り込まれた。チャールズ2世は、淑やかで美しいルイーズに夢中になった。ネルは取り澄ましてもったいぶったルイーズの事を、皮肉のきいた機知でよくからかった。ネルはそのうちにルイーズを「しだれやなぎ」(Weeping Willow)や「やぶにらみ美人」(Squintabella)と呼ぶようになった。この「しだれやなぎ」というのは王が美女の涙に弱く、またルイーズがそれを知っていた事を、「やぶにらみ美人」というのはルイーズが少し近視で、やぶにらみのようになる事を例えて言ったものだった。ネルは、その明るさとユーモアと機知で王を楽しませ、よく笑わせていた。ルイーズやオルタンス・マンチーニ (Hortense Mancini、1646年 - 1699年)などの他の寵姫達とは違い、ネルは田舎が好きで、よくチャールズ2世や息子と共に田舎で過ごした。また、ネルは友情に厚く、かつての劇場仲間を忘れず、彼らが困っている時は援助を惜しまなかった。
※この「王との出会い、寵姫たちの争い」の解説は、「ネル・グウィン」の解説の一部です。
「王との出会い、寵姫たちの争い」を含む「ネル・グウィン」の記事については、「ネル・グウィン」の概要を参照ください。
- 王との出会い、寵姫たちの争いのページへのリンク