王としての全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:37 UTC 版)
こうして一通りの粛清が済んだ後ヘロデの王国は一応安定期に入り、ヘロデは壮大な建設計画を実行した。 エルサレムに劇場(市内と市外の平原に1つづつ)を建て、かつての北イスラエル王国の都であったサマリアを復興しセバステ(アウグストゥスを讃える名前)と命名し、そこを含め国内の要塞(歴史に名を残す大要塞マサダ、当時の後援者の名をつけたエルサレムの神殿を守るアントニア要塞、自分の名前を冠した要塞都市ヘロディオンや別の要塞都市マカイロス。他にガラリヤやペレア地方、後述のカエサリアにも要塞が建てられ、エルサレムにあったヘロデの宮殿も非常時には要塞に成った)を強化した。また、ヘロデに限らず、この頃のローマの属州や同盟国は皇帝アウグストゥスを讃える建築物を建て、「カエサリア」と名付けた都市を築いていたが、ヘロデもまたBC22年に莫大な資材や予算をつぎ込み、フェニキア地方のストラトンの塔と呼ばれた所に防波堤の行き届いた大きな円形の港(それまでこのあたりは遠浅でいい港がなかった)を持ち、カエサルへの神殿が立ち、円形劇場や上下水道が完備した海辺のカエサリア(カイサリア・マリティマ)を建設した。 この中でもなんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのは、治世の18年目(BC20-19年頃)から始めたエルサレム神殿の大改築であった。この工事はヘロデの死後も続きアルビヌス総督(AD62-64年)ごろにやっと完成した(理由はいくつかあるが見栄えだけではなく地盤沈下の補修などの実用的な工事もあった)が、とりあえず1年6か月後に拝殿そのものができた時に完成祝いを行い(回廊や外庭の工事は8年かかった)。その壮重さは「ヘロデの建物を見たことがないものは誰でも、決して美しいものを見たとは言えない」ということわざが生まれたほどで、神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。 それだけでなくヘレニズム君主としてもパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供し、この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになり、数年おきに開いた豪華絢爛な体操や音楽の競技大会はまだしも、剣闘士たちや猛獣の死闘は不敬虔な行為で外国の習俗の模倣で国民の習俗を変えるのは不信仰な行為とされ、劇場建設後まもなく、ヘレニズムかぶれをしてユダヤの慣習から遠ざかるヘロデを嫌った徒党による暗殺未遂事件があった(これはヘロデの部下によって取り押さえられ大事に至らなかった)。これ以外には神殿の門の上に鷲の紋章を付けて後に撤去するように騒ぎが起きるトラブルの種を起こしたり(後述)、ヘロデの治世下でサンヘドリンは重要性を失った他、自分の判断でちょくちょく大祭司の解任と任命をやっていたなど、ユダヤ教内では律法を重んじるファリサイ派の民衆からよく見られなかった(ただし、ハスモン家よりの貴族層に多いサドカイ派の人々とはさらに仲が悪かった)。法律もユダヤの風習と違うものに改編されていき、ヨセフスは一例にユダヤで前例のない「外国の奴隷に売られる罰(押し込み強盗級の罪に適応)」が、売られた先で律法を守りながら生活することができないので「王が犯人を処罰するというより、王が伝統の宗教に挑戦していると受け取られた」としている。 このようにヘロデのユダヤ教への態度は(神殿の建築などには協力的だったが)表面的でヘレニズム文化に傾いていたが、それでも最低限のしきたりには配慮して偶像崇拝のタブーを犯さないように自分の作った貨幣には肖像を入れず(晩年に鷲の紋章入りの硬貨が1種類発見されているのみ)、エルサレムでは華麗な建物を建てても基本的に彫像は置かないようにしていた他、神殿再建の際にも祭司だけが踏み入れてよい場所には入らないようにしていたというような自重はしていた他、ローマに対するコネを使ってディアスポラのユダヤ人たちの地位や安全の確保を行ってはいた。 これ以外にもヘロデの評価は時折よくなることもあり、例として在位13年目に少なくとも2年続いた大飢饉で、食物を輸入しようにもヘロデ自身都市の建設などで金を使い切っていたので、最終手段として自分の持っている貴金属(食器・装飾品など)を鋳つぶして金に換え、コネがあった当時のエジプトの総督ペトロニオスに頼み込み優先的に穀物の輸出や船の手配をしてもらった。そして食料品以外に衣類(羊が食料にされていたため羊毛不足が起きていた)なども配給し、さらに種籾をユダヤだけではなく他のシリアの住民にも渡し、その次の年には凶作が収まった。これによってヘロデはだいぶ出費をした(ヨセフスによるとユダヤ王国内で約8万コロス、国外の人には1万コロスを使用)がヘロデの名声を大きく上げ、それまでの行為を知っていた人々もヘロデが本来は優しい人間ではないかと思うようになったという。 その後、ヘロデは皇帝アウグストゥスに気に入られたことでユダヤの北東部にある、トラコニティス、ガウラニティス、バタナイアを手に入れ、一時(ヘロデの治世17年目)に先領主ゼノドロスとその一派がこれに納得がいかずにヘロデのやり方が強硬的だと訴えたが結局不起訴になり、さらに病気がちだったゼノドロスが裁判終了後死亡したのでトラコニティスとガリラヤの間にあったゼノドロスの残りの領地までもがヘロデのものになり、こういったこともあってヘロデはシリアの行政長官の一員になり、弟のフェロラスもテトラルケスにしてもらえるなどの厚遇を受けた。なお、ヨセフスはここに限らず何度も「ヘロデは皇帝に気に入られていた」ということを書いてあるが、決してヘロデがローマの同盟領主(rex socius)のなかで特別扱いされていたわけではなく、例として貨幣のうち銀貨以上の鋳造権をヘロデ自身を含む彼の一族は行うことができなかったなど、これ自体は立場相応の恩恵だった。
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