王としての死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 01:31 UTC 版)
「ボードゥアン4世 (エルサレム王)」の記事における「王としての死」の解説
一方、病がつのり結婚の望みが絶えてしまったので、ボードゥアンは王位継承問題に決着をつけておく必要があった。 レーモン3世は思慮分別に富み、サラディンと個人的に親しく、王に最も近い血縁であることから、王にもしものことがあれば王権を求めることもできたが、男子継承より近親継承を優先する土地の風習により、1177年、姉シビル(シビーユ)にピエモント貴族であるグリエルモ・ディ・モンフェッラートを娶せ、二人の間に後のボードゥアン5世がもうけられた。しかしグリエルモは数ヶ月後にマラリヤで亡くなり、継承問題は振り出しにもどってしまう。未亡人シビーユは当代随一の美男子というほか何の取り柄もないギー・ド・リュジニャンと再婚をし、下の妹のイザベルももっとくだらないオンフロワ4世と結婚する。王国の重責はボードゥアンにかかるが、病状は日ごとに悪化し断続的にしか政務は執れなかった。母のアニェス・ド・クールトゥネーも権勢と金銭欲の固まりのような女で、これら王の近親は王国を食い物にし、有能な家臣であるトリポリ伯を嫌う点で共通した。 1183年ナザレで行われた家族会議で王は王国の摂政権をギーに委任したが、たちまち無能さをさらけ出して摂政権を取り上げられ、11月にわずか5歳のボードゥアン5世の即位が宣言された。1185年ギーはアスカロンの領地に妻のシビーユを連れ出し、出頭を促す王の命令を無視するだけでなく、エルサレム王に帰服したベドウィン族を虐殺したので、激怒したボードゥアンは王国の全権をギーの敵トリポリ伯レーモンに委譲した。死期を悟った王は「すべての貴人に対して、エルサレムの王のもとに来たることを命じ、王が世を立ち去るときは、すべての者が王の薨去に立ち会った」(年代記より[要出典])。24歳没。 アラビアの史家エル=イマードは「この癩病持ちの子は、その権威を敬わせることができた」と書いている。十字軍の歴史を書いたルネ・グルッセは「その苦痛と克己に満ちた姿は、十字軍の全史を通じても、おそらくは最も高貴な姿であろう。英雄の雄姿は、膿と瘡におおわれながらも、聖人の面影を宿している。このフランスが生んだ王の純粋な肖像を不当な忘却の彼方からひきだして、マルクス・アウレリウス賢帝やルイ聖王のかたわらに置きたい」と賞賛している。
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