王との結婚
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「マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ」の記事における「王との結婚」の解説
毒殺事件(フランス語版)に関わったとしてモンテスパン夫人は急速に評判を落とし、王の最後のお気に入りフォンタンジュ嬢が出産時に急逝した。1683年7月30日に王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝、翌1684年にマントノン夫人は王太子妃の第一女官長となった。 1685年から1686年にかけての冬、パリ大司教フランソワ・ド・アルレー・ド・シャンヴァリョン(フランス語版)が司った私的な挙式において、フランソワーズはルイ14世と結婚した。王の贖罪司祭フランソワ・ド・ラ・シェーズ(フランス語版)、モンシュヴルイユ侯爵、クロード・ド・フォルバン、アレクサンドル・ボンタンも出席したと信じられている。社会的階層の不釣合いのために、彼女は王との結婚を公にし王妃となることはできず、貴賎結婚であった。結婚についての証明書は何も存在しないが、歴史家たちは結婚が確かにあったことを容認している。 ルイ14世とマントノン夫人の結婚当時まだ少年であったサン=シモン公ルイ・ド・ルヴロワ(フランス語版)は、自伝の中でこう書いている: これは本当に起きた事で真実である。冬のさなか王がフォンテーヌブローから戻った後、 王妃マリー・テレーズが崩御された(これが本当に真実でも、後世の人々はたやすく信じることはできないだろう)。王の贖罪司祭ラ・シェーズは、ヴェルサイユ宮殿の王の私室で、王妃の崩御された夜にミサを行ったと言った。ヴェルサイユ知事で侍従長であるボンタン、そして4人の最大の腹心たちがこのミサに出席した。ミサとは、王とマントノン夫人がパリ大司教アルレー、そしてルーヴォワ(2人ともこの結婚を決して公言しないよう王に約束させられていた)、モンシュヴルイユ出席のもと行った結婚式のことである。 ...蜜月の飽満は常に致命的となる。特にこのような結婚の蜜月は、マントノン夫人への寵愛が確かなものであるからにすぎない。直後、夫人にヴェルサイユ宮殿内に部屋を与えられ、皆が驚いた。王の部屋と同じ階で、王の部屋に面する大階段の上であったからである。このときから、王は毎日彼女と数時間過ごすようになった。王のそばにはいつも夫人がいるか、同じ階の部屋にいた。 モンテスパン夫人は、この結婚について追想録で以下のように記した: その後一週間のマントノン夫人は、かすり傷も癒え、王の意に同意した。それまで彼女は人々の関心をひくことに反対していたのである。モンシュヴルイユ侯爵夫妻、ノアイユ公爵、シャマラント侯爵、ボンタン、ニノン嬢とその信頼のおける部屋係が、城内の礼拝堂での、フランス及びナヴァール王との結婚式に出席した。パリ大司教アルレーはシャルトル司教と王の贖罪司祭ラ・シェーズに協力してもらいながら、この結婚に祝福を与え、金の指輪を贈った。松明の明かりさえ使われた深夜に行われた儀式の後、小さな部屋で軽い食事が提供された。マントノン夫人を頼って馬車に乗った出席者らは荘厳な儀式とミサ、そしてこの場合の慣習の全てを祝っていた。式から戻ったマントノン夫人は、彼女のため細部にわたってアレンジされ、飾り立てられた極めて豪華な私室を所有することになった。彼女のお付は揃いの服を着用し続けた。しかし、夫人は王の乗る大型馬車内を除いてどんな乗り物にも乗ったことはなかった。私たちは、王妃が座るべき場所に夫人が座っているのを見たのである。 私的な場合、陛下の称号が彼女に与えられた。そして王は彼女のことを話すとき、マントノンをつけず夫人(Madame)という言葉を用いるだけだった。マントノンという称号があまりによく知られ、些細なものになったからである。
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