文成公主とは? わかりやすく解説

ぶんせいこうしゅ 【文成公主】

チベットの王(吐蕃王)に嫁した唐の皇女六四〇(貞観一四)年唐太宗娘分として遣わされ王子もうけたが王が没し、父王と再婚。父王没後両国和平のために尽くし死後尊崇されてチベット仏教尊像となった

文成公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 01:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
文成公主
吐蕃の第2皇后

出生 623年
死去 680年
配偶者 グンソン・グンツェン中国語版英語版
  ソンツェン・ガンポ
子女 マンソン・マンツェン
テンプレートを表示

文成公主(ぶんせいこうしゅ、'un shing kong jo623年頃 - 680年)は、の皇女で、吐蕃ソンツェン・ガンポ王の第2皇后。

略歴

634年、吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出た。しかしこのときは吐谷渾の妨害にあって実現しなかったため、638年にソンツェン・ガンポは吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。これにより唐が妥協し、640年に文成公主を送ることとなった。

公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン中国語版英語版(在位:641年 - 643年)の妻となった。642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。

夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。

ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。

現代では文成公主を観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩の化身とする見方もある。

脚注

[ヘルプ]

注釈

出典

参考文献

  • 山口瑞鳳『チベット (下) 改訂版』、東京大学出版会。
  • ロラン・デエ『チベット史』、春秋社。

小説




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「文成公主」の関連用語

文成公主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



文成公主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの文成公主 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS