吐蕃と仏教伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:46 UTC 版)
7世紀前半、吐蕃のソンツェン・ガンポ王(在位:581年 - 649年)がチベット統一を果たすと共に、唐とネパールから嫁いだ2王妃、文成公主とチツン(中国語版、英語版)の勧めで仏教に帰依した。吐蕃の首都ラサにはトゥルナン寺(ジョカン、大昭寺)が建立された。 ティソン・デツェン王(在位:742年 - 797年)の代には仏教が国教と定められ、国立大僧院サムイェー寺が建設されて、インドのナーランダ僧院(那爛陀寺)の長老シャーンタラクシタが招聘された。また、パドマサンバヴァが密教を伝えた。さらに、786年には敦煌から禅僧摩訶衍(まかえん)がチベットに招かれたが、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラと摩訶衍の禅宗との間で論争(サムイェー寺の宗論)が行われた結果、カマラシーラのインド系仏教が正統とされた。以来、サンスクリット語経典をチベット語へ翻訳する事業が始められ、824年頃までかけて膨大なチベット大蔵経が作られた。 吐蕃末期には、国家仏教の支配体制に揺らぎが生じた。最後の王ラン・ダルマは仏教勢力の排除を目論んで廃仏を行い842(846?)年に暗殺されたという伝説が伝えられている。王家が地方に四散した後は、チベットは長い分裂時代を迎えた。
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