吐蕃征討と可汗の廃立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
貞元6年(790年)、吐蕃が回鶻に従属していた白眼突厥(白服突厥)・三姓葛邏禄(ウチュ・カルルク)・沙陀部などへ贈物を贈って共に北庭大都護府を攻撃したが、東方で奚・契丹の反乱が起きていたため、忠貞可汗(在位:789年 - 790年)は頡于迦斯(イル・オゲシ)を派遣して救援に向かわせた。しかし、頡于迦斯率いる回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。その後、頡于迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく5・6万の兵で攻めたが、大敗を喫し兵の大半が死んだ。このとき楊襲古がまた西州に逃げようとしたので、頡于迦斯は彼を殺した。一方で葛邏禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。6月、頡于迦斯は本国に帰還するが、彼の遠征中に忠貞可汗がその弟に殺され、その弟も国人によって殺されて新たに忠貞可汗の子である阿啜(奉誠可汗、在位:790年 - 795年)が立っていた。可汗阿啜と国人たちは頡于迦斯を出迎え、ひれ伏して可汗廃立の事情を説明するとともに、留守中に惨事を起こしたことを陳謝した。事情を聞いた頡于迦斯は新たな可汗に臣下の礼を執るとともに忠貞可汗の死を悲しんだ。 791年、北庭を奪還、また唐軍と共に塩州・霊州へ攻撃を掛けて陥落させ吐蕃の首領を捕えた。この後の、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。保義可汗(808年 - 821年)の治世には、ジュンガル盆地を制圧してカルルクを服属させ、タリム盆地を制圧するが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持。809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻・唐の間の直道(参天可汗道)を遮断。813年、漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し周辺も制圧された。821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は、専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服した。
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