吐谷渾征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 05:49 UTC 版)
貞観8年(634年)、今度は西部の吐谷渾が唐に背き、使者を監禁して攻め込んできた。太宗は李靖を当代一の戦上手と一目置いていたが、老齢であるので別の将軍を任用しようと思っていた。これを聞いた李靖は自ら志願して吐谷渾討伐へと赴き、数万の兵を率いて五箇所から同時に侵攻した。 吐谷渾の伏允は李靖を警戒して撤退し、草地を焼き払って馬の飼料をなくす焦土戦術を取った。諸将はこれを見て進撃の難しさを知り、次の年に草が生えるのを待ってから再度進撃することを勧めた。しかし李靖は、草が生え代わるのは遊牧民族である吐谷渾にとっても有利であり、勝機があるのは敵軍が敗走に動揺している今しかないと言って追撃を指示した。 全軍は餓えに苦しみながらも進撃し、伏允は部下に殺され、吐谷渾は滅びた。後に太宗はこの時に李靖が捕らえた伏允の嫡子を西平郡王に取り立てて、祖国に復活させたため、西部国境においても長らく平和が保たれた。 晩年においても太宗の絶大な信頼は微塵も揺るがず、宰相を務めるなどして終わりを全うした。
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