吐蕃との同盟とは? わかりやすく解説

吐蕃との同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 16:30 UTC 版)

南詔」の記事における「吐蕃との同盟」の解説

そこで、南詔雲南西北部勢力延ばしていた吐蕃同盟し752年、閣羅中国語版ベトナム語版)は吐蕃冊封を受け、兄弟の国として東帝の号を賜った754年、唐の剣南留後(四川長官)が南詔攻撃してきたが、吐蕃南詔連合軍破られ全軍覆没している。この時、唐軍戦死者葬った塚が天宝戦士塚として、今も大理市内に残っている。 その後、唐では安史の乱起こったので、吐蕃南詔四川南部攻略したこの頃吐蕃は唐の都長安(現・陝西省西安)を一時占領するほどの勢いであった。779年に異牟尋(中国語版ベトナム語版)は、吐蕃南詔連合軍20大軍をもって成都占領目指したが、すでに国力回復していた唐軍撃退された。 この頃南詔は羊咩城(現・雲南省大理)に遷都している。大理はこれ以降南詔大理の定都となった

※この「吐蕃との同盟」の解説は、「南詔」の解説の一部です。
「吐蕃との同盟」を含む「南詔」の記事については、「南詔」の概要を参照ください。

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