斉秦互帝
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 17:15 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動斉秦互帝(せいしんごてい、中国語: 齊秦互帝)は、紀元前288年に秦と斉が盟を結び、秦が西帝、斉が東帝を称した事件。
紀元前288年10月、秦の昭襄王が西帝を自称した。そして斉の湣王へ魏冄を派遣し、東帝を称し、共同で趙を攻めるように要請した。斉王は蘇秦に問うと、蘇秦は斉王に受諾するように頼んだ。しかし、後に蘇秦は「秦王が帝号を称し、天下の各国が反対を唱えなければ、斉王は帝号を称することにした。秦王は帝号を称することで天下の各国から非難を浴び、斉王は帝号を称しなかった。また、共同で趙へ侵攻するより、暴虐ぶりで『宋の桀』と知られる康王の宋へ侵攻することが有利です」と説いた。斉王は同意し、帝号から王号に戻した。12月、呂礼は斉から秦へ派遣され、昭襄王は帝号を廃し、秦王を称した。
参考文献
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東帝
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前314年、燕で「子之の乱」が発生した。孟子の献策により、を5都の兵を率いて燕へ侵攻(中国語版)することを匡章に命じた。前301年、斉と韓、魏が楚を攻め垂沙の戦い(中国語版)で大勝した。 前298年から前296年に、斉と韓、魏が合従し秦の函谷関に侵攻し、秦に和を求めた。前288年、秦の昭襄王は西帝、湣王は東帝を名乗り、共同で趙を攻めた。蘇代は帝号を名乗る不利益を説き、湣王は王号に復称した。同年十二月、呂礼(中国語版)が秦に派遣され昭襄王の帝号を王号に復称した。前286年、宋の内乱に応じて宋を滅ぼし、南は楚、西では三晋(韓、魏、趙)に侵攻した。斉は全盛期を迎えた。
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