斉攻略とは? わかりやすく解説

斉攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/26 00:19 UTC 版)

斉攻略
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前221年
場所臨淄
結果:斉の滅亡、の中華統一
交戦勢力
指導者・指揮官
王賁
蒙恬
李信
王建(捕虜)
戦力
600,000 300,000
秦の統一戦争

斉攻略戦(せいこうりゃくせん)は、紀元前221年を滅ぼした戦い。斉は戦国七雄の最後の一国であった。これにより、中華は秦によって統一された。

攻略戦

前265年襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后中国語版が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝中国語版が執政した[1]。后勝はから賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した[1][2]。田建は后勝の主張を聞き入れ五国()の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった[1][2][3]

やがて、五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊を西部の辺境に集結させた[4]

前221年秦王政は斉の攻略を王賁に命じた[5]蒙恬李信も斉攻略軍に加わった[6]

秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した[4][7]。田建は降伏し、斉は滅亡した[8]

田建はの旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した[9][10]

秦は斉の地に斉郡瑯琊郡を置いた。これにより、秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった[11]

影響

始皇帝

斉が滅んだことで、中華は秦によって統一された。秦の王は初めて「皇帝」と名乗った[12]。統一後は、重臣李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[12]。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[13]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒も知られる[14]

脚注

  1. ^ a b c 史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆為反間,勸王去從朝秦,不脩攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。
  2. ^ a b 戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
  3. ^ 島崎晋 2019, p. 97.
  4. ^ a b 島崎晋 2019, p. 102.
  5. ^ 『史記』秦始皇本紀
  6. ^ 『史記』白起・王翦列伝、蒙恬列伝
  7. ^ 寺田隆信 1997, p. 49.
  8. ^ 史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:五國已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽奸臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。
  9. ^ 資治通鑑 秦紀卷七》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。
  10. ^ 戰國策・卷十三・齊策六》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可 立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」
  11. ^ 吉川 (2002)、pp.101-106、第三章 統一への道‐六国併合‐4
  12. ^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). World History: Volume I: To 1800. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.
  13. ^ 柿沼2015
  14. ^ Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). Rise and Fall of the Qin Dynasty. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.

参考文献

  • 吉川忠夫『秦の始皇帝』(第1刷)講談社学術文庫、2002年。ISBN 4-06-159532-6 
  • 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。 
  • 寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。 

斉攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 09:03 UTC 版)

楽毅」の記事における「斉攻略」の解説

紀元前286年そのような動き湣王は気がつかず、宋を滅ぼし、その領土を斉に組み入れた。この成功でますます傲慢になった湣王は、自分成功良い顔をしない孟嘗君が疎ましくなり殺そうとした。孟嘗君恐れて魏へ逃げた紀元前284年、燕は楽毅上将軍任じ大軍発し、韓・魏・趙・連合軍合流した楽毅連合軍総大将として、五国連合軍の総指揮執り斉軍を済西で打ち破った済西の戦い)。その後楽毅は燕軍を指揮して斉の首都臨淄迫り湣王は莒に逃げ込んだ楽毅臨淄占領し伝来宝器奪取し全て燕に送った昭王大い喜び直々に斉まで来て楽毅褒賞し、昌国君に封じた領地の殆どはかつての功臣などで占められており、分けられる領土少ない中で領地与えた辺り昭王喜びの程が知れる続いて楽毅破竹の勢いで斉の70余の都市次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を開いた城も相次ぎ、残るは即墨と莒の二つとなった楽毅湣王籠る莒を攻めた一方湣王その頃将軍であり斉の救援に来た淖歯により殺されていた。淖歯その後憤慨した住民たちより殺され湣王の子の法章が探し出され襄王として立てられた。同じ頃、即墨では田単籠城頑強に抵抗した即墨の戦い)。

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