斉攻略とは? わかりやすく解説

斉攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 19:54 UTC 版)

斉攻略
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前221年
場所臨淄
結果:斉の滅亡、秦の天下統一
交戦勢力
指導者・指揮官
王賁
蒙恬
李信
斉王建(捕虜)
后勝
秦の統一戦争

斉攻略戦(せいこうりゃくせん)は、紀元前221年を滅ぼした戦い。斉は戦国七雄の最後の一国であり、これにより天下は秦によって統一され、200年近く続いた戦国時代が終結した。

攻略戦

紀元前265年、斉の襄王が崩御し、子のが即位した。当初は王后の君王后中国語版が輔政したが紀元前249年に君王后が逝去し、后勝が国政を執り行うようになった。后勝は秦から賄賂を受け取り、多くの賓客を秦に遣わした。秦はそれら客臣にも賄賂を与え、内通者に仕立て上げた。斉王建は后勝や客臣の提言を聞き入れ、軍事を強化せず、秦を攻める合従にも加わらず、五国()の滅亡を傍観した[1][2][3]

紀元前222年に燕が滅亡し、五国が滅びると、斉王建と后勝は秦が侵攻することを恐れ、軍を西方の国境に配置した[4]

紀元前221年、秦王政は斉が秦の使者を拒んだことを口実に、斉の攻略を王賁に命じた[4]蒙恬李信も斉攻略軍に加わった[5]。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、斉の北に位置する燕から南下し、斉の国都臨淄へ侵攻した。秦軍が臨淄に入った時、民は誰一人抵抗しなかったという。秦は斉の客臣の陳馳[6]を使者として遣わし、斉王建に五百里の封地を与えると約束した。この勧告を受けて斉王建は降伏し、斉は滅亡した[7][8][9]

その後、斉王建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移されたが、松柏の林の中に幽閉され、食糧を絶たれて餓死した[8][9]。秦は斉の地に斉郡瑯琊郡を置いた。

影響

始皇帝

斉が滅んだことで、秦は天下を統一し、統一王朝の秦朝となった[10]。秦の王は初めて「皇帝」と名乗った[11]。統一後は、重臣李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[11]。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[12]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒も知られる[13]

脚注

  1. ^ 史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆為反間,勸王去從朝秦,不脩攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。
  2. ^ 戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
  3. ^ 島崎晋 2019, p. 97.
  4. ^ a b 『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年9月7日閲覧。
  5. ^ 『史記』白起王翦列伝、蒙恬列伝
  6. ^ 戰國策 (士禮居叢書本)/齊/六 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月7日閲覧。 “齊客之入秦者。正曰:上章謂「齊賓客入秦,皆為變辭」。”
  7. ^ 史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:五國已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽奸臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。
  8. ^ a b 戰國策・卷十三・齊策六》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可 立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」
  9. ^ a b 資治通鑑 秦紀卷七》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。
  10. ^ 吉川 (2002)、pp.101-106、第三章 統一への道‐六国併合‐4
  11. ^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). World History: Volume I: To 1800. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.
  12. ^ 柿沼2015
  13. ^ Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). Rise and Fall of the Qin Dynasty. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.

参考文献

  • 吉川忠夫『秦の始皇帝』(第1刷)講談社学術文庫、2002年。ISBN 4-06-159532-6 
  • 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。 
  • 寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。 

斉攻略

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楽毅」の記事における「斉攻略」の解説

紀元前286年そのような動き湣王は気がつかず、宋を滅ぼし、その領土を斉に組み入れた。この成功でますます傲慢になった湣王は、自分成功良い顔をしない孟嘗君が疎ましくなり殺そうとした。孟嘗君恐れて魏へ逃げた紀元前284年、燕は楽毅上将軍任じ大軍発し、韓・魏・趙・連合軍合流した楽毅連合軍総大将として、五国連合軍の総指揮執り斉軍を済西で打ち破った済西の戦い)。その後楽毅は燕軍を指揮して斉の首都臨淄迫り湣王は莒に逃げ込んだ楽毅臨淄占領し伝来宝器奪取し全て燕に送った昭王大い喜び直々に斉まで来て楽毅褒賞し、昌国君に封じた領地の殆どはかつての功臣などで占められており、分けられる領土少ない中で領地与えた辺り昭王喜びの程が知れる続いて楽毅破竹の勢いで斉の70余の都市次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を開いた城も相次ぎ、残るは即墨と莒の二つとなった楽毅湣王籠る莒を攻めた一方湣王その頃将軍であり斉の救援に来た淖歯により殺されていた。淖歯その後憤慨した住民たちより殺され湣王の子の法章が探し出され襄王として立てられた。同じ頃、即墨では田単籠城頑強に抵抗した即墨の戦い)。

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