李信とは? わかりやすく解説

李信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/30 17:11 UTC 版)

李信

李 信(り しん、生没年不詳)は、中国戦国時代末期の将軍。字は有成[1]。槐里(現在の陝西省咸陽市興平市)の人。前漢の将軍李広の先祖にあたる[2]。秦王政(後の始皇帝)に仕え、天下統一に貢献した。司馬遷史記白起王翦列伝及び刺客列伝においてその事績が記されている。

生涯

秦が紀元前230年を滅ぼした後(韓攻略)、攻めを命じられた王翦が数十万の兵を率いてに布陣した時、李信は太原雲中に出征していたとされる(趙攻略[3]

始皇21年(紀元前226年)、秦王政は前年の太子丹が主導した荊軻による暗殺未遂事件の報復として、燕の国都薊(現在の北京市西南)を攻め落とした。丹は精鋭軍を率いて東方の遼東に逃れていたが、これを李信が数千の兵の指揮を執って追撃し、衍水の中まで追い込んで丹を捕らえた[2][4][注 1]。その後、秦と燕は一時的に停戦したと思われる。

秦王政はを滅ぼすためにどれだけの兵数が必要かを諸将に諮問した。李信は「20万で十分」と答え、一方で王翦は「60万が必要」と答えた。秦王政は王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用し、李信と蒙恬に楚の攻略を命じた[4]

始皇22年(紀元前225年)、李信と蒙恬は総兵員20万を二つの軍に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝[注 2]で楚軍に大勝した。さらに李信は鄢郢[注 3]を攻めてこれを破った[4]

その後、李信は兵を引いて西へ向かい、城父(現在の安徽省亳州市譙城区)で蒙恬と合流しようとしたところを楚軍に攻撃され、三日三晩にわたる不休の追撃によって李信の軍は壊滅に追い込まれた。さらに楚軍に二つの拠点に侵入され、都尉を7人討ち取られて秦軍は潰走した[4]

この敗戦の報を受けた秦王政は激怒し、隠退していた王翦のもとに謝罪に訪れ、再び将として軍を率いてくれるよう懇願した[4]

始皇23年(紀元前224年)、李信と交代した王翦と蒙武が60万の軍で楚を攻め、始皇24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚攻略[4][5][6]

始皇25年(紀元前222年)、王賁が燕を滅ぼすために遼東に侵攻し、李信は王賁に従って燕を攻めた。秦軍は燕王喜を捕虜とし、燕を滅ぼした(燕攻略[4][5]

始皇26年(紀元前221年)、王賁・蒙恬と共にを攻め、これを滅ぼした(斉攻略[4][5][6]。これによって六国を滅ぼした秦は天下を統一した[7]

李信のその後については伝世の史書及び現在までに発見されている史料に記載はなく、不明である。

人物

『史記』白起王翦列伝において李信は、「(おそらく紀元前226年時点で)年が若く、勇壮であった」、「(燕の太子丹を捕らえた功績により)秦王政から智勇が備わっていると評価されていた」と記されている。同書では「秦の天下統一は王氏と蒙氏の功績が特に大きく、その名は後世にまで伝えられている」と記されている一方で、李信については触れられていない[4]

対楚戦の失敗後も粛清されず、子孫が残っていることから、秦王政より李信は信用を得ていたと考えられる。

現在では『史記』以外の史料はほぼ散逸して、李信の事跡には不明な点が多い。

楚攻略戦の敗因について

宿将王翦の老練な見立てに比して、若気による軽挙妄動が敗因と捉えられることが後世では一般的である。しかし別の敗因説を唱える言説も少なくなく、その論は昌平君の反乱に原因を求めるものである。

昌平君は秦の重臣にして楚の公子であったが、紀元前226年に楚の旧都に移され、紀元前224年に楚の将軍項燕によって楚王に立てられ、秦に反旗を翻した人物である[5]。楚は国都をいずれも「郢」と命名しており、この言説における郢は紀元前278年に白起が陥落させて南郡が置かれた方ではなく、その後に遷都した(郢陳)の方とする説を取る[注 4]

『史記』の記述では李信はまず平輿を攻め、次いで鄢郢を破った後、「そこで兵を引いて西に向かい」城父を目指し、これを楚軍に追撃されたとある[4]。しかし城父は鄢郢の北東に位置するため、西進とするのは不可解である。

楚略地図[8]。左から鄢・陳・城父・寿春。

この進軍の理由について、歴史学者の田余慶中国語版は次のような推論を導き出している。

鄢郢とは鄢と当時の楚の国都寿春(郢)を意味し、つまり秦軍が寿春(郢)を攻め落として楚を滅ぼそうとしたまさにその時、陳(郢陳)にいた昌平君が謀反を起こして挙兵したため、李信は楚攻めを中止せざるを得なくなり、軍を北西に返して蒙恬と合流しようとした結果、前後から楚軍の挟撃を受けて大敗を喫したのだという。

この論を実証できる材料は今のところ存在しないが、現在、中国のオンライン百科事典などでは事実として記述されており、中国のドラマ『始皇帝 天下統一』でも採用されるなど、社会一般に十分に浸透しているものと思われる。

『新唐書』宗室世系表の李信

以下の本節は『新唐書』宗室世系表上(以下、宗室世系表と略す)という史料に基づいて記述する。宗室世系表は皇帝の一族とされる隴西李氏の族譜をもとに宋代に成立した記録であり、その内容には唐の宗室の出自と家格を高貴化するための粉飾があると考えられている。

宗室世系表によると、隴西李氏は姓の出自であり、顓頊高陽氏の子孫とされている。李信の祖先には、李耳(老子)の名がみられる。李信の祖父の李崇は、を伯祐といい、秦の隴西郡守・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の南郡郡守・狄道侯となった。李信は字を有成といい、秦の大将軍・隴西侯となった。李信の子の李超は、またの名を伉ともいい、字を仁高といい、の大将軍・漁陽太守となった。李超には二人の男子があって、長男が李元曠といい、漢の侍中となった。李超の次男は李仲翔といい、漢の河東太守・征西将軍となり、反乱を起こしたを素昌で討伐して戦没した。李仲翔は太尉の位を追贈され、隴西郡狄道県東川に葬られたことから、李氏はここに家をかまえた。李仲翔の子の李伯考は漢の隴西・河東の二郡の太守となった。李伯考の子の李尚が、漢の成紀県令となり、このため成紀県に居住した。李尚の子が、漢の前将軍の李広であるとされる。李広以下の子孫の記録は、五胡十六国時代西涼李暠へと続き、唐の高祖李淵にいたる。また宗室世系表以外では李白も前述の李暠の九世の子孫と記されている[1]

漢の李広の祖先が李信であることは、『史記』李将軍列伝にも見られるが、宗室世系表に見えるその間の4代については全く古い史料の裏づけがなく、そもそも李広は紀元前166年に従軍記録があるため[2]、李信の来孫であることはまずありえない。李信自身についても、字や官爵のことは他に見られない。李信の父祖についても同様である。

脚注

注釈

  1. ^ 『史記』刺客列伝では、燕王喜が代王嘉から勧められて衍水に隠れ潜んでいた丹に使者を送って殺害して秦に献じたと記されており、同書、秦始皇本紀では丹は薊が陥落した時に討たれたと記されている。
  2. ^ 史記集解』には「寝丘」の事を指すとあり、具体的な位置について河南省沈丘県固始県の境界付近、安徽省阜陽市臨泉県の二説がある。
  3. ^ かつて楚の国都は郢(現在の湖北省荊州市)に置かれていたが、後に鄢(現在の湖北省襄陽市宜城市)へ遷都した。楚は国都の所在地を全て「」と称し、新都の呼称として郢を引き続き使用したため、他と区別するために「鄢郢」という複合地名が生まれた。
  4. ^ 『史記』六国年表・楚世家に紀元前226年に王賁が楚を攻めて10余りの城を落としたとあり、この中に陳(郢陳)が含まれているものとする。

出典

  1. ^ a b  新唐書 巻七十 表第十上 宗室世系上 序の項 (中国語), 新唐書/卷070上#序, ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ a b c 『史記』李将軍列伝
  3. ^ 『史記』刺客列伝
  4. ^ a b c d e f g h i j 『史記』白起王翦列伝
  5. ^ a b c d 『史記』秦始皇本紀
  6. ^ a b 『史記』蒙恬列伝
  7. ^ 『史記』六國年表
  8. ^ 譚其驤. “《中国历史地图集》” (中国語). 2025年9月30日閲覧。

関連項目

史料

漫画

  • 鄭問東周英雄伝』『始皇』- 秦の始皇帝に仕える六虎将の一人として李信が『始皇』に登場。『東周英雄伝』では19話「貪財将軍」にて楚の侵攻前後の王翦とのやり取りが描かれている。
  • 横山光輝史記』- 秦王政に仕える将軍として、楚の侵攻に当たり蒙恬と将軍に任じられ項燕に敗れ、その後王賁と燕を滅ぼすまでが描かれている。
  • 原泰久キングダム』 - 公式ガイドブックの『キングダム英傑列紀』には、主人公の少年・信が李信であることが明記されている。信が下僕の少年から功を積み重ね、天下の大将軍を目指すというストーリー。将軍信が「李信」を名乗るようになったのは、46~60巻の鄴攻略戦での大功で信が将軍に昇進する際に、秦王・嬴政から、将軍になるのに姓がないのは困るから姓を与えると言われたからである。「李」姓をつけたのは、信のかつての無二の親友・が嬴政の影武者になる際に「李」という姓を与えられ「李漂」になっていたことを聞いたからである。




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