負芻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 16:05 UTC 版)
負芻 | |
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楚 | |
第26代王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前228年 - 前223年 |
都城 | 郢(寿春)→陳 |
姓・諱 | 熊負芻 |
父 | 考烈王あるいは頃襄王 |
負芻(ふすう、生没年不詳)は、中国戦国時代の楚の最後の王(在位:紀元前228年 - 紀元前223年)。姓は羋、氏は熊。考烈王の庶子、あるいは弟[1]。
生涯
幽王10年(紀元前228年)、幽王が亡くなると公子猶(哀王)が継いで楚王となったが、即位してから二か月余りで庶兄である負芻の一派が襲撃して殺し、負芻は楚王に即位した[2]。負芻の一派は、幽王が考烈王の子ではないことを知り[3]、その同母弟で遺腹子の哀王にも疑いを抱いたとされる[1]。
楚王負芻4年(紀元前224年)、楚の大将軍の項燕が秦の老将軍王翦に蘄で敗れた[2][4]。
楚王負芻5年(紀元前223年)、王翦と蒙武が楚を攻め、負芻は捕虜となった[2][5]。
負芻が捕虜とされた後、項燕は公子の昌平君を擁立して秦に抵抗したが、王翦の猛攻で両者は戦死し、春秋時代から続いた楚はついに滅亡した[6](楚攻略)。
脚注
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