負芻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/28 16:07 UTC 版)
負芻 | |
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楚 | |
第26代王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前228年 - 前223年 |
都城 | 郢(寿春)→陳 |
姓・諱 | 熊負芻 |
父 | 考烈王あるいは頃襄王 |
負芻(ふすう、生没年不詳)は、中国戦国時代の楚の王(在位:紀元前228年 - 紀元前223年)。姓は羋、氏は熊。考烈王の庶子[1]、あるいは弟[2]。
生涯
幽王10年(紀元前228年)、幽王が亡くなると同母弟の猶(哀王)が継いで楚王となったが、即位してから二か月余りで庶兄である負芻の一派が襲撃して殺し、負芻は楚王に即位した[1]。また、李園の一族も誅滅した。負芻の一派は、幽王が考烈王の子ではないことを知り[注 1]、その同母弟で遺腹子の哀王にも疑いを抱いたとされる[2]。
負芻2年(紀元前226年)、秦の王賁が楚を攻めた。楚軍は大敗し、10余りの城を失った[3]。
負芻3年(紀元前225年)、秦が李信・蒙恬を将として20万の軍で楚を攻めた。序盤は劣勢であったが後に反攻に転じ、秦軍を覆没させる大勝を収めた[1][4]。
負芻4年(紀元前224年)、秦が王翦・蒙武を将として60万の軍で楚を攻めた。楚軍は大敗し、大将軍項燕は蘄南(現在の安徽省宿州市埇橋区南)で討ち取られた。秦軍は勢いに乗じ、畳みかけるように楚の城邑を平定していった[1][4][5]。
負芻5年(紀元前223年)、秦軍と1年ほど抗戦していたがついに負芻は捕虜とされ、楚は滅亡した(楚攻略)[1][4]。
楚の滅亡については、『史記』の中で二つの異なる記述が存在し、以上は『史記』年表・世家・列伝に基づく。
同書、秦始皇本紀によると、紀元前224年の時点で負芻は秦軍によって捕虜とされており、項燕は討ち取られていない。項燕は楚の公子であり秦の重臣でもあった昌平君を新たな楚王に擁立し、淮南で反乱を起こした。翌年の紀元前223年、秦軍はこれを攻めて破り、昌平君を戦死させ、項燕も自害させた。これをもって楚の滅亡とする[6]。
脚注
注釈
出典
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