燕王喜とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 燕王喜の意味・解説 

燕王喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/16 09:21 UTC 版)

燕王喜
第43代王
王朝
在位期間 前254 - 前222
都城
姓・諱 姫喜(姞喜)
孝王

燕王喜(えんおう き、生没年不詳)は、中国戦国時代の最後の君主(在位:紀元前254年 - 紀元前222年)。姓はまたは[1]

子に始皇帝の暗殺を謀ったことで有名な太子丹がいる。

生涯

孝王3年(紀元前255年)、父の孝王が崩御し、燕王に即位した[2]

燕王喜4年(紀元前251年)、宰相栗腹に使者として送って友好を深めようとした[2]。この頃の趙は長平の戦い白起に大敗して40万の兵を失って疲弊しており、帰国した栗腹の報告でそれを知った燕王喜は、考えを改めて軍を趙に攻め込ませようとした。楽毅の子の昌国君楽間は「趙は四方を敵に囲まれた戦国で、その民は戦に慣れています。攻めてはなりません」と進言したが、燕王喜はこの意見を退けた。

燕王喜は大軍を興し、戦車二千輌を用意した。軍を2つに分け、一軍は栗腹が率いてを、もう一軍は卿秦が率いてを攻めるよう命じた。自らも軍を率いて出陣しようとすると、大夫の将渠が「他国と盟約を結び、その王に酒宴を供したのに、その使者が帰った途端に攻め入るなど不吉なことです。この戦いに勝ち目はありません」と進言したが、燕王喜は怒って将渠を蹴り飛ばした。趙は名将廉頗に迎え撃たせ、鄗において栗腹を破り、さらに楽毅の一族の楽乗が代で卿秦を破った。楽間は楽乗を頼って趙に亡命した。

廉頗は燕軍を追撃して燕の国都を包囲した。燕は講和を願い出ると、趙は必ず将渠に和議を担当させるよう求め、将渠のもとで和議が成立すると薊の包囲は解かれた[2]

燕王喜12年(紀元前243年)、趙の李牧が燕を攻め、武遂方城を失った。同年、燕は劇辛を将として趙を攻めさせたが龐煖に迎撃され、劇辛は討ち取られ、燕軍2万が捕虜とされた[2]

燕王喜23年(紀元前232年)、燕は秦と盟約を結び、証として太子丹を人質として差し出した。丹は趙で秦王政(のちの始皇帝)が人質の境遇にあった際、共に人質として交友関係があったが、秦で秦王政に冷遇されたのを恨んで逃亡し燕に帰国した[3]

燕王喜28年(紀元前227年)、丹は荊軻を刺客として秦王政の暗殺に送るが失敗し、激怒した秦王政は王翦に燕を攻めさせた[4][3]。燕はとともに抗戦するが、燕・代連合軍は易水の西で秦軍に敗れた[3]

燕王喜29年(紀元前226年)、秦により薊が陥落し、東方の遼東に逃れた[2][4][3]。秦が執拗に燕を追討したため、燕王喜は代王嘉の勧めもあり、使者を送って丹を斬首し秦に献じた[3][5]。結果、燕と秦は一時的に停戦したと思われる。燕王喜は遼東を収め、一応は命脈を保った[4]

燕王喜33年(紀元前222年)、秦の王賁の侵攻を受けて遼東が陥落し、燕王喜は捕らえられて燕は滅亡した(燕攻略[4]

脚注

  1. ^ 姓は『史記』燕世家では周王朝と同姓の「姫姓」としているが、殷墟から発掘された『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』よれば、姞姓である。
  2. ^ a b c d e 『史記』燕召公世家
  3. ^ a b c d e 『史記』刺客列伝
  4. ^ a b c d 『史記』秦始皇本紀
  5. ^ 『史記』秦始皇本紀では丹は薊が陥落した時に討たれたと記されており、同書、白起王翦列伝では秦将李信によって丹は捕らえられたとされている。

参考文献

先代
孝王
の君主
紀元前254年 - 紀元前222年
次代
滅亡



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「燕王喜」の関連用語

燕王喜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



燕王喜のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの燕王喜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS