楚攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/01 23:39 UTC 版)
楚攻略 | |
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戦争:秦の統一戦争 | |
年月日:紀元前225年-紀元前223年 | |
場所:中国 | |
結果:楚の滅亡 | |
交戦勢力 | |
秦 | 楚 |
指導者・指揮官 | |
李信 蒙恬 王翦 蒙武 王賁 |
負芻(捕虜) 昌平君 † 項燕 † |
戦力 | |
王賁:不明 李信:200,000 王翦:600,000 |
10数万[注 1] のち30数万[注 2] |
損害 | |
王賁:不明 李信:大破 王翦:不明 |
不明 |
楚攻略戦(そこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部で秦が楚を滅ぼすまでの戦い。
攻略戦
紀元前226年、秦王政は楚攻略にどれだけの兵力が必要であるかを諸将に諮問した[1]。李信は「20万」で充分だと答え、王翦は「60万」が必要だと答えた[1]。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、若く勇ましい李信の案を採用して侵攻を命じた[1]。王翦は老病を理由に軍職を辞し、故郷の頻陽へ帰った[2]。また、楚の公子で秦の重臣でもある昌平君が楚の旧都郢(秦の南郡あるいは陳)に移された[3]。
第一次
同年、秦の将軍王賁が楚を攻め、楚軍を大いに破って10余りの城を落とした[4]。
城父の戦い
紀元前225年、李信と蒙恬は20万の軍を率いて楚に侵攻した。軍を2つに分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝[注 3]で楚軍に大勝した[1]。さらに李信は鄢郢[注 4]を攻め、楚軍を破った[1][2]。
その後、李信は兵を引いて西へ向かい、城父(現在の安徽省亳州市譙城区)で蒙恬と合流した[注 5]ところを楚軍に急襲された。楚軍は三日三晩休むことなく攻め続け、李信の軍を大いに破った。さらに楚軍は二つの拠点に攻め入って[注 6]都尉を7人討ち取り、秦軍を潰走させた[1][2][5]。
秦王政は敗戦の報を聞いて激怒し、自ら頻陽へ急行して王翦に謝罪し、再び将軍として軍を率いてくれるよう懇請した。王翦の「兵六十万人」の条件を秦王政は承諾し、蒙武を裨将軍(副将)とした[2]。
第二次
紀元前224年、王翦と蒙武は60万の大軍を率いて出陣した。この秦の大軍に対し、楚は国内の兵を総動員して備えた[2][6]。
王翦は国境付近に到着すると、堅固な陣を敷いて守りに徹し、楚軍と決して戦おうとしなかった。王翦はついに楚軍が東へ退却したのを見計らうと、全軍を挙げて追撃し、精兵でもって楚軍を大いに破った。王翦と蒙武は蘄南(現在の安徽省宿州市埇橋区南)まで進軍し、楚の大将軍項燕を討ち取って楚軍を潰走させた。秦軍は勝勢に乗じて楚の城邑を次々と平定した[2]。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚王負芻を捕虜とした。楚は滅亡し、秦は楚の領土を三つの郡に分けた[2]。
紀元前222年、南方に出征していた王翦はついに楚の江南の地を平定し、百越の諸王を降伏させ、ここに会稽郡を置いた[2][3]。
異説
楚の滅亡の経過については、司馬遷『史記』の中で2つの異なる記述が存在し、上記は六国年表・楚世家・白起王翦列伝・蒙恬列伝および『資治通鑑』などに基づく。以下は『史記』秦始皇本紀の記述に基づく。
紀元前224年、秦王政は引退した王翦を召し出し、懇請して将軍に復帰させ、楚攻めを任じた。王翦は陳から南の平輿に至るまで攻略し、負芻を捕虜として楚を滅ぼした。その後、項燕は昌平君を楚王に擁立し、淮南(淮河以南)[注 7]で秦に反旗を翻した[3]。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚を攻め、楚軍を破った。昌平君は戦死し、項燕もついに自害して楚は完全に滅亡した[3]。
脚注
注釈
- ^ 『史記』楚世家によれば、頃襄王は東地から10万以上の兵を得て失地を回復した。このことから通常の場合、10万以上の兵を動員できると推定される。
- ^ 楚の大臣昭常の言によると楚東地の最大動員数は30余万とされる。
- ^ 『史記集解』には「寝丘」の事を指すとあり、具体的な位置について河南省沈丘県と固始県の境界付近、安徽省阜陽市臨泉県の二説がある。
- ^ かつて楚の国都は郢(湖北省荊州市荊州区紀南城遺跡)に置かれていたが、のちに鄢(湖北省襄陽市宜城市楚皇城遺跡)へ遷都した。楚は国都の所在地を全て「郢」と称し、新都の呼称として郢を引き続き使用したため、他と区別するために「鄢郢」という複合地名が生まれた。
- ^ 城父は鄢郢の東方に位置するため、『史記』の「兵を引いて西へ向かい」とする記述とは整合性が取れない。可能性としては、誤記・誤読、鄢郢は鄢と郢(当時の楚の国都の寿春を意味する)の2つの城邑を指す等が考えられる。
- ^ 『史記』の原文では「入兩壁」で、「城や塁の両側」「李信軍と蒙恬軍の両陣営」などの解釈がある。
- ^ 『史記正義』によると楚の淮河以北の領土は全て秦の占領下であった。
出典
- ^ a b c d e f 島崎晋 2019, p. 80.
- ^ a b c d e f g h “『史記』白起王翦列伝” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
- ^ a b c d “『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
- ^ “『史記』六國年表”. ja.wikisource.org. 2025年8月17日閲覧。
- ^ 秦滅楚 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
- ^ “『史記』蒙恬列伝” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
楚攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 07:54 UTC 版)
詳細は「楚攻略」を参照 紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」で充分だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。 李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した。 さらに、李信と蒙恬は、楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。 しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い)。 紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となり、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。 紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡し、九江郡となった。 紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。翌年、秦は斉を滅亡させ、天下を統一する。
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