楚材の虚実と毀誉褒貶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:30 UTC 版)
耶律楚材は中国や日本において、古来非常に高く評価されている。これは、モンゴル帝国の最初期において、いまだ国家の体制も定まっていない遊牧民の連合政権であったモンゴル帝国に中国の文人官僚を代表して仕え、中国統治の実務担当者として活動したとされることによっている。 しかし、さらに進んで耶律楚材はチンギスの最も信頼できるブレーンであったとか、オゴデイの時代に大ハーンを補佐し、モンゴル帝国の拡大を支えた宰相であったとされているのには若干の問題がある。このような見方に対するもっとも根本的な反論としてあげられるのは、チンギスの中央アジア征服に始まるモンゴル帝国の歴史を記した網羅的な歴史書であるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』やラシードゥッディーンの『集史』、その他ワッサーフによる著作など、主にイルハン朝を中心としたイラン地域の歴史家によるペルシア語の歴史書に楚材の名前が一切登場せず、東アジアの中国(漢文)史料にしか名前があらわれないことである。 また、従来は楚材がチンギスの中央アジア遠征に随行し、様々な助言を行ったことからチンギスに参謀として仕えたとされていた。しかし、それ自体が楚材を高く評価している『元史』「耶律楚材伝」ですら、楚材がチンギスに対して天文の占いと予言以外の仕事をしたことを伝えておらず、『元史』以外の中国史料においても、書記・通訳以外の業績が一切伝わっていない。楚材自身「自分は書記であって軍国の議には預かることはできない」と自ら述べたこともある。 また、楚材をモンゴル帝国の宰相とみなすのは、オゴデイ政権期の楚材の中国語での肩書きが「中書令」(「中書省の長官」の意)と記録されていることによる。中書令は唐以来、最高位の宰相職であり、モンゴル帝国においてものちのクビライ時代に皇太子・チンキム(真金)が中書令に就いている。しかし、政権の漢化がより進み始めるクビライの時代と異なり、オゴデイの時代には中書省は宮廷に付随した書記(ビチクチ)の文書行政処理機関といった程度の役割しかなく、その長官の中書令といってもそれほどの重職ではない。しかも、南宋からモンゴルに送られた使節が書いた報告書から、楚材ら漢文担当の書記が書いた勅令も、ウイグル文担当の書記の鎮海(チンハイ、ケレイト族出身)がサインをしなければ発効しなかったことが明らかにされている。 従って、中書令耶律楚材は、実際にはモンゴル帝国の北中国(旧金領)方面の文書行政を司る中国語担当の書記のリーダーであったようである。しかも、当時の北中国は金滅亡後の混乱に乗じて台頭し、モンゴルの支配下に入った中国人の軍閥(漢人世侯)が在地権力を握っており、またモンゴルの貴族達がその上級領主として君臨していたので、楚材の権限は非常に限られたものであった。 日本のモンゴル史学者、杉山正明は、著書『耶律楚材とその時代』(1996年)で楚材に関する碑文や楚材自身の書き残した文章の分析から、楚材が宰相として中国人から賞賛されたのは、楚材自身がそのような虚栄を好む小人物であったからだと結論し、楚材の人格も否定的に論評している。[要ページ番号] 一方、陳舜臣の小説『耶律楚材』(1994年)のあとがきでは、次のように記されている。 「この作品で利用した資料は、楚材の著作をはじめ、すべて漢文の文献である。モンゴル史は、漢文だけでなく、ペルシア文献も参照すべきであるが、不思議なことに、ジュワイニーやラシードなどのペルシア文献には、耶律楚材の名はまったくでてこない。なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。だが、彼の詩文を読んでも、たとえば息子の鋳が15歳になったときに与えた詩に、「忝なくも位は人臣を極め」とあるように、彼がモンゴル政権の中枢にいたことはたしかである。おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人命を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収の成績をあげたのでもない。イスラム史家の立場からみれば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる」 しかしながら、疲弊した中国をモンゴル流の破壊から守った事や略奪的手法を収入の手段としていたモンゴル国家に税収による財政制度を整備して収奪を極力防いだ事は、民族救済のみならず元の成立基盤ともなり国家の成長に大いに貢献した事は間違いなく、やはりモンゴル史を語るには欠かせない人物の一人とされる。
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