詩文
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『稲川詩草』は文政4年(1821年)、駿府江川町採撰亭鉄屋十兵衛による出版で、古詩・絶句・律詩に分けて694首を収める。『稲川遺芳』『詩集日本漢詩』に収録される。 地元葵文庫には稲川の遺稿が数多く残されており、「詩稿」「文稿」「雑稿及雑抄」「書簡集」と分類される。 「詩稿」 - 26冊中4冊が散佚している。 「昆陽詩集」 - 天明7年~寛政3年 「昆陽詩集」 - 上の清書版 「昆陽詩集 不如無斎」 「昆陽集」「壬子詩稿」 - 寛政4年(1792年)、5年(1793年) 「辛亥稿 不如無斎」 - 寛政3年(1791年) 「癸丑詩稿 不如無斎」 - 寛政4年(1792年) 「乙卯稿 不如無斎」 - 寛政7年(1795年) 「丙辰詩稿 不如無斎」 - 寛政8年(1796年) 「丁巳稿 不如無斎」 - 寛政9年(1797年) 「昆陽詩集 戊午五月」 - 寛政10年(1798年)、秋葉山登山の記 「不如無斎雑稿己未集」 - 寛政11年(1799年) 「不如無斎詩稿 自庚申至壬戌」 - 寛政12年(1800年)~享和2年(1802年) 『不如無斎詩稿 自癸亥至乙卯」 - 享和3年(1803年)~文化3年(1806年)、乙卯年(1807年)は含まず 「乙卯詩草」 - 文化4年(1807年) 「稲川詩稿 癸酉 甲戌 乙亥』 - 文化10年(1813年)~12年(1815年) 「丁丑戊寅稿」 - 文化14年(1816年)、文政元年(1818年) 「己卯雑稿 不如無斎」 - 文政2年(1819年) 「庚辰雑稿」 - 文政3年(1820年)、4年(1821年) 「癸未稿 不如無斎」 - 文政6年(1823年)、7年(1824年) 「乙酉詩稿 不如無斎」 - 文政8年(1825年)、9年(1826年) 『於陵樵唱』 『佩蘭新雅』 - 稲川に贈られた詩をまとめたもの。 「文稿」 - 『聖藩羝触』『孟浪俚言』の2作については、漢字仮名交じり文である点や内容から他人著作の写しという説もある。 『鮫洲之告別』 『遊日光山記』 - 寛政元年(1789年)兄亮平と日光に遊んだ際の日記。 『遊房総記』 『晴窓瑣記』 『閲古砕録』 『思旧漫録』 - 旧交27人の事蹟を記す。 『聖藩羝触』 『孟浪俚言』 「稲川文草一」 「稲川文草二」 「稲川文草三」 「稲川文草四」 「稲川文草五」 「稲川文草六」 その他次の著書も所蔵される。 『東寓日歴』 - 死去の年、文政9年3月13日に駿府を出て同年5月23日までの日記。 『柳斎記』 慶応義塾大学斯道文庫には「稲川日記」5冊が所蔵される。 『昆陽日記』 - 寛政9年(1797年)1月~4月4日、10年(1798年)1月29日~2月3日 『昆陽私録』 - 寛政10年(1798年)7月24日~12月9日 『文化八年 日記 稲河家』 - 享和3年(1803年)2月18日~22日、文化8年(1811年)7月7日~10月26日 『稲川日記』 - 文化9年(1812年)3月~9月、10年(1813年)1月・2月等 『稲川日記』 - 文化2年(1805年)9月19日~10月17日 その他の詩文としては以下がある。 『随輿私筆』 - 「巻之二」のみ現存。寛政4年(1792年)母と西国を巡った際の日記。 『晦休録』 - 文化4年(1807年)、文化5年(1808年)・6年(1809年)、文化7年(1810年)部から成る日記。 「駿河国巡村記」 - 内閣文庫蔵。22冊。 『焼津遊記』 - 文化2年(1805年)成立。繁原央「焼津遊記〈静岡県立中央図書館蔵〉-翻刻・注釈-」『常葉国文』第15巻に翻刻。 「日本書紀」 - 天理図書館蔵。朱筆の書入れがある。 『肖山野録』 - 東京都立中央図書館蔵。文政2年(1819年)跋。楽山吟社仲間との共著。繁原央「翻刻『肖山野録』(東京都立中央図書館蔵)」『常葉学園短期大学紀要』第19巻に翻刻される。
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詩文
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全文は、早くは大永2年(1522年)の東大寺蔵『野馬台縁起』に見られ、その後、江戸時代の文献にも見られる。 東海姫氏國(東海姫氏の国)百世代天工(百世天工に代る)右司爲輔翼(右司輔翼と為り)衡主建元功(衡主元功を建つ)初興治法事(初めに治法の事を興し)終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す)本枝周天壤(本枝天壌に周く)君臣定始終(君臣始終を定む)谷塡田孫走(谷填りて田孫走り)魚膾生羽翔(魚膾羽を生じて翔ぶ)葛後干戈動(葛後干戈動き)中微子孫昌(中微にして子孫昌なり)白龍游失水(白龍遊びて水を失い)窘急寄故城(窘急故城に寄る)黄鷄代人食(黄鶏人に代わりて食み)黑鼠喰牛腸(黒鼠牛腸を喰らう)丹水流盡後(丹水流れ尽きて後)天命在三公(天命三公に在り)百王流畢竭(百王の流れ畢り竭き)猿犬稱英雄(猿犬英雄を称す)星流飛野外(星流れて野外に飛び)鐘鼓喧國中(鐘鼓国中に喧し)靑丘與赤土(青丘と赤土と)茫茫遂爲空(茫茫として遂に空と為らん) 大意 東海にある姫氏の国(日本)では百世にわたって天に代わり(人の治める国になった)左右の臣下が国政を補佐し宰相が功績を打ち立てた初めはよく法治の体制を整え後にはよく祖先を祀った天子と臣下は天地にあまねく君臣の秩序はよく定まった(しかし、)田が埋もれて貴人が逃げまどいなますに突然羽が生えて飛ぶ(下克上の時代になった)中頃に衰え、身分の低い者の子孫が栄え白龍は水を失い困り果て異民族の城に身を寄せた黄色い鶏が人に代わってものを食べ黒い鼠が牛の腸を喰らった王宮は衰退し天命は三公に移った百王の流れはついに尽きて猿や犬が英雄を称した流星が野外に飛び(戦いを告げる)鐘や鼓が国中に響いた大地は荒れ果て(日本と朝鮮、という解釈もある)果てしない世界は無に帰した
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詩文
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7歳から良く詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。ことにその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句をつくるので「算博士」の俗称がある。武后は駱賓王の文を重んじ、詔してその文章の数百編を集めて郗雲卿に命じ編纂させたのが、『駱丞集』4巻であるそれに頌・賦・五七言古・五律・排律・絶句・七言絶句・啓・書・叙・雑著の11項目に分かれて、作品が収められている。 松枝茂夫は『中国名詩選』で駱賓王の代表作として『易水送別』を選んでいる。 易水送別此地別燕丹 此の地 燕丹に別る 壯士髮衝冠 壮士 髪 冠を衝く 昔時人已没 昔時 人 已に没し 今日水猶寒 今日 水 猶ほ寒し ウィキクォートには、駱賓王に関する引用句があります。
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詩文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 08:48 UTC 版)
黄庭堅は詩文にも優れ、杜甫の詩と韓愈の文に造詣が深い。杜甫の詩に影響されたのは、黄庭堅の父の黄庶が『伐檀集』(ばつたんしゅう)二巻の著で、杜甫の詩を好んだとしている。これも理由の一つとされる。古人の詩文をもととし、これに創意を加えて新しい作品をつくることをいう「換骨奪胎」の語で知られる詩論を確立し、後世江西詩派の開祖とされた。 代表作『山谷詩集』でも、書道芸術に対し重要な見解をいくつか発表している。優れた伝統の継承と個性の創造を強調して、その作品で実証してみせている。 荊江亭即事 原文 書き下し文 意訳 翰墨場中老伏波 翰墨場中の老伏波 わたしは翰林院に馴染めない馬援老将のようであり 菩提坊裏病維摩 菩提坊裏の病維摩 病のため釈迦の下に参ずることがかなわない維摩のようだ 近人積水無鴎鷺 人に近づき積水に鴎鷺無く 豊かな自然はあっても粋人や友はおらず 時有帰牛浮鼻過 時に帰牛の鼻を浮かべて過ぐる有り 無粋な者を相手に無益な時間を過している 山谷は多くの中国の詩人たちと同じく、公式的には儒教的立場を標榜しつつ、しかも老荘および仏教(禅学)思想に多大の興味と関心を払っている。かれは特に「荘子」を好んだ。それは、少年時代からの親友の黄介(? - 1088年)の影響によるもので、この友人は、恐らく山谷よりも年長であったと考えられるが、読書人たちのあいだにまだそれほど流行していなかった時期に、早くもこの痛快な超俗の書を推賞していたのである。 山谷の作品における「荘子」の引用は、枚挙にいとまがないが、なかでも見落とすことのできないのは、「斉物論篇」に説かれる万物一体観にもとづく、自然への甚だしい愛着、大自然のうちに潑剌として生きる動物たちとの融合への願望であろう。 のちに、「二十四孝」のひとりに名を連ねられたように、温厚篤実の典型的な君子人とされている山谷ではあるが、かれのなかにも、世俗への嫌悪とそして野性へのあこがれが、実は根深く存在しつづけていたのである。 このように、大自然を愛した山谷の作品に、自然詩が、なかんずく純粋の叙景詩ー唐代の詩人たちが完成した山水の美の忠実な描写ーが、ほとんど見られない。かれは、自然をえがくことには、あまり、興味を持たぬように思われる。かれの作品に時としてあらわれる風景描写は、だいがいはむしろ紋切り型といってよく、類似表現の繰りかえされる場合が多い。
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詩文
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文章をもって聞こえ、明代後期に盛行した文壇の潮流に一石を投じた。すなわち、15世紀末から16世紀初頭にかけて李夢陽・何景明らは「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」といってその格調に学ぶことを主張し、ついで16世紀半ばには李攀龍・王世貞らが同様に擬古主義を唱えた。これらの流派を「古文辞派」といい、当時の読書人たちの間では共鳴する者反対する者さまざまであった(反対する文人らをとくに「公安派」といい、主な人物に帰有光、また袁宏道を含む袁氏三兄弟がいる)。銭謙益は盛唐の詩人杜甫に学びつつもこれら古文辞派の見解を排し、有詩無詩の説を立てて「詩は気を以て主と為す」とした。また、仏教に造詣が深いことからその思想を自らの文学にも当てはめ、詩は視覚によるものではなく、詩中に描かれる声・色・香・味は鼻で嗅ぐことによって聞き分けられるとする「香観説」を唱えた。こうしたことから明末清初の当時、文人としては呉偉業・龔鼎孳と併せて江左の三大家と称せられるに至った(なお呉偉業も明清の二朝に仕えている)。こうした詩論は青年期の王士禎に、さらには18世紀後半、乾隆帝治世下に生きた袁枚の「性霊説」にまで影響を与えている。
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詩文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 13:48 UTC 版)
儒学者の家に生まれた耀蔵は詩をよくものした。特に幽閉時代は無聊を慰めるため詩作に励んだが、自身の悶々とした思いが込められている。例えば次の詩は赦免されて23年振りに江戸(=東京)へ帰ってきたときの述懐である。 「東京」 交市通商競イテ狂ウガ如ク誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン (現代語訳) 人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。 誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。 五十年後の未来を予想できるならば 日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。
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「詩文」の例文・使い方・用例・文例
- 詩文集
- 演説や詩文に於いて人身批評をすべきものでない
- 詩文の鑑識がある
- (誰某)詩文集
- 詩文の1つの行の語群に強勢のある音節を同じ子音で始めること
- 詩文を作る手ぎわは同じでも,作品の趣きが違うこと
- 世間に広く知られていないすぐれた詩文
- 絵の余白に書き添えられる詩文
- (漢詩文で)起句と結句
- 美しい字句で書き表された詩文
- 詩文の才に秀でていること
- 詩文の才に秀でている人
- 詩文で,古体をまねて作品を作ること
- すぐれた詩文
- 他人の作った詩文
- 相手が詩文を添削すること
- たわむれに詩文を作ること
- たわむれに作った詩文
- 下手な詩文
詩文と同じ種類の言葉
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