事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:50 UTC 版)
1206年モンゴル帝国が成立すると、当時のモンゴル人にしては珍しくウイグル文字に通暁していたことをかわれ、チンギス・カンによって大断事官(イェケ・ジャルグチ)に任命され、徴税を担当した。1215年に金の中都が開城した時、シギ・クトクはオングル・バウルチ、アルカイ・カサルとともに財宝庫の接収のため中都に派遣された。この時、オングル・バウルチとアルカイ・カサルは金朝留守のカダから金幣を受け取ったが、シギ・クトクは受け取らなかった。後にこの一件を知ったチンギス・カンはシギ・クトクを褒め称え、オングルとアルカイ・カサルらを叱責した。1219年に始まる大西征にも従軍し一軍を率いたものの、ホラズム軍にパルワーンの戦いで大敗を喫してしまう。これは西征におけるほとんど唯一といっていいモンゴル側の大敗だったが、シギ・クトクがチンギス・カンの義弟にあたることもあって罪には問われなかった。 『集史』チンギス・カン紀のチンギス・カンの諸将リストによると、トルイに与えられた諸軍のうち、シギ・クトクは右翼軍を支えたの千人隊長(ミンガン)のひとりとして列記されている。 チンギス・カンの死後もシギ・クトクはその子孫に仕え続けた。オゴデイ時代に入り、金が征服されると耶律楚材らとともに旧金領の戸籍を作り、税制を定めた。その後もモンケ即位時の大粛清を乗り切り、モンケに中都の大断事官に命じられている。晩年にクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が始まると、当時彼はカラコルムにいたためアリクブケ政権に味方した。結果としてアリクブケは継承戦争に敗れ、シギ・クトクがクビライに降伏したとき命は許されたものの不遇な晩年を送ったという。 モンゴル人には珍しく長寿だったようで、『集史』によると没した時は82歳であったという。『元朝秘史』では功臣表十七位に列している。
※この「事蹟」の解説は、「シギ・クトク」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「シギ・クトク」の記事については、「シギ・クトク」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/28 02:55 UTC 版)
伊達稙宗・伊達晴宗・伊達輝宗の三代に仕えた。 稙宗の拡張政策に不満を持ち、越後上杉氏への養子問題をきっかけに晴宗を擁立して反逆、天文の乱を引き起こし、数年の抗争の末に勝利し、稙宗を隠居に追い込んだ。宗時は晴宗から特権を与えられ権勢を振るった。 晴宗は永禄7年(1564年)に輝宗に家督を譲り隠居したものの、輝宗の代になっても宗時の権勢は衰えなかったが、永禄13年(1570年)4月、宗時は子の牧野久仲と共に輝宗に謀反の疑いをかけられて追討を受ける。宗時は相馬盛胤を頼って落ち延びることに決め、二井宿峠を越えて太平洋側へと向かった。道中の高畠城主小梁川盛宗(親宗の子)・白石城主白石宗利・内親城主宮内宗忠・角田城主田手宗光はいずれも宗時とも親しい間柄だったため、中野勢の通過を見逃したが、松川の渡し場である宮の河原(現:刈田郡蔵王町宮)で待ち受けていた亘理城主亘理元宗の攻撃を受けて中野勢は潰滅し、宗時らは身一つで相馬領へと逃れた(元亀の変)。 宗時と久仲は大森城主伊達実元と晴宗を通じて輝宗に赦免を乞うが許されず、流浪のうちに死去したという。 〔系図Ⅰ:中野宗時関連〕 ┏新田義綱 新田景綱━┫ ┗新田義直桑折景長━━女子 ┃ ┣━━━━女子 ┏中野親時中野宗時━┫ ┗牧野久仲━━牧野為仲━━牧野盛仲
※この「事蹟」の解説は、「中野宗時」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「中野宗時」の記事については、「中野宗時」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 06:22 UTC 版)
「イラリオン (キエフと全ルーシの府主教)」の記事における「事蹟」の解説
新約聖書のみならず、ユダヤ教の聖典でもあった旧約聖書を巧みに利用してユダヤ教を批判しキリスト教を讃えた「律法と恩寵についての講話」が彼の著作では最もよく知られる。その他、数編の説教を残している。
※この「事蹟」の解説は、「イラリオン (キエフと全ルーシの府主教)」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「イラリオン (キエフと全ルーシの府主教)」の記事については、「イラリオン (キエフと全ルーシの府主教)」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 04:07 UTC 版)
同和ホールディングス元会長吉川廣和は東大同窓、同社副社長時に持ち株分社化。藤田観光においては株主優待の繁忙期適用除外期間設定による既存邦人顧客重視から、将来を見据えた中国人個人訪日旅行客の獲得へのシフトをはかり、日中国交正常化以前より中国要人利用が多数ある実績を発掘し、中国営業部設置や同社本部スタッフへの積極的な華人採用を行う。熊本県人吉市まちづくり親善大使。
※この「事蹟」の解説は、「末澤和政」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「末澤和政」の記事については、「末澤和政」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:19 UTC 版)
『伊達世臣家譜』によれば、基信は陸奥国信夫郡(現在の福島市)八丁目城下西光寺の住職の子であるという。 若いころは諸国を巡り、その後米沢を訪れ、伊達家に仕えたという。はじめは伊達晴宗の権臣である中野宗時の家来であったが、後に宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたとき、宗時の謀反を直前に密告したことを輝宗に賞されて、輝宗配下の宿老として取り立てられたという。このとき、1,500石の所領を与えられている。 基信は外交手腕に優れており、織田信長・徳川家康・北条氏照・柴田勝家・田村清顕らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行ったりしている。信長と積極的に交誼するよう輝宗に進言したのは基信であり、輝宗は信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈っている。これらのことより、基信は輝宗政権時の伊達氏のなかでは家臣団を代表する立場であったといえる。 また、公家で武家伝奏を務めた飛鳥井雅敦と連歌のやり取りをしており、基信が中野宗時の立場を引き継いだこと(以前は飛鳥井家との交流は宗信が担当していた)や基信の教養が京都や諸大名と伊達氏との外交における人脈作りにも役立ったことが推測できる。 また、後に伊達政宗の軍師となったことで有名な片倉景綱を若年のうちに見い出し、小姓に推挙した。政宗の回想によると基信は才知あふれる人物で、翌年のことを予見させても「十に八ツは外れぬ」先見性をもっていたという。 天正12年(1584年)10月に輝宗が政宗に家督を譲って隠居をすると、翌天正13年(1585年)8月には基信も隠居をする。ところが、同年10月8日、政宗のやり方に遺恨を抱いた二本松義継により拉致されて、政宗の部隊に義継もろとも銃撃されて非業の死を遂げた。基信は輝宗の忌日(二七日)の10月21日に輝宗の墓前で自刃し、殉死した。享年54。 墓は山形県高畠町夏刈・資福寺跡にあり、主君の輝宗の墓の隣に建てられている。 家督は嫡男の宗信が継いだが早世し、その弟の玄信が継いだ。後に玄信は栗原郡川口村滝野(宮城県栗原市一迫川口滝野)に所領を与えられ、幕末まで続いた。 平成25年(2013年)5月に行われた山形県米沢市にある「延徳寺遺跡」の発掘調査により、同市教育委員会は「同遺跡から伊達氏上級家臣の屋敷跡とみられる遺構が見つかり、出土品などから遠藤基信の館跡の可能性がある」と発表した。発掘調査結果は2014年に 米沢市埋蔵文化財調査報告書;第104集 延徳寺遺跡発掘調査報告書 としてまとめられ、その後も文献などの追跡調査が行われている。
※この「事蹟」の解説は、「遠藤基信」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「遠藤基信」の記事については、「遠藤基信」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/10 16:13 UTC 版)
天正13年(1585年)、父の基信は不慮の死を遂げた伊達輝宗に殉死した。このため宗信がわずか17歳で遠藤家の家督を継ぎ、伊達政宗に仕え宿老となる。 天正16年(1588年)6月の佐竹・岩城連合との戦いでは田村城を死守するなど活躍した。 文禄元年(1592年)の朝鮮出兵でも政宗に従い渡海し、武功を挙げたが、帰国後の報奨が少なかったことに不満を抱いて出奔し、一時伊達家を離れている。のちに他の家臣に説得されて帰参している。 文禄2年(1593年)に京都にて22歳で病没。遠藤家は、弟の遠藤玄信が継いだ。
※この「事蹟」の解説は、「遠藤宗信」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「遠藤宗信」の記事については、「遠藤宗信」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 07:02 UTC 版)
徳源寺〜三田井後河内。三田井家菩提寺。高千穂太郎の位牌などあったが消失廃滅。 遁光寺〜三田井中組。三田井家家臣の菩提寺。廃滅。 義雲寺〜向山中山。九代政貞の建立。廃滅 八幡宮〜上野下野。建久3年6月16日、三田井惟元造営。 薬王山東岸寺〜岩戸。天文14年4月、親武が再興。 紫雲山龍泉寺〜上野。後鳥羽上皇第三皇子開基。 祖母山岳大明神〜田原。文明年中建立。天明壬虎春再建。 祖母山岳大明神〜上野。三田井家勧請。
※この「事蹟」の解説は、「三田井氏」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「三田井氏」の記事については、「三田井氏」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 15:22 UTC 版)
赤壁の戦いの後、劉備は孫権の妹を娶り、孫権の支援で荊州の主となった。殷観は劉備から荊州の主簿に取り立てられている。 その後、孫権が劉備に対し、益州を協力して攻撃することを持ちかけてきた。劉備陣営ではこの提案に乗るべきだという意見もあった。しかし殷観は、孫権軍の先駆けとなって益州を攻撃するよりも、孫権への態度を曖昧にした上で、独力で益州を攻め取るべきだと意見した。劉備は殷観の提案に従い、孫権の益州攻撃に賛成しつつも「今は荊州を得たばかりであり、準備ができていない」と返答し、孫権に益州共同攻撃を断念させた。 後、荊州別駕に昇進した。 小説『三国志演義』には登場しない。
※この「事蹟」の解説は、「殷観」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「殷観」の記事については、「殷観」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/12/23 12:07 UTC 版)
上総において千葉氏や原氏などと勢力を競い、1516年には相模の伊勢盛時(北条早雲)から援軍を受けて原氏と戦っている。1518年、真里谷武田家の勢力を拡大するため、古河公方の足利高基と対立していた足利義明と結び小弓公方として擁立した。このため、真里谷武田家は、古河公方陣営にとどまった本家筋の長南武田家を凌ぐ勢力を誇るようになった。 武蔵を巡って後北条氏と扇谷上杉氏との抗争が激化すると、扇谷上杉家の要請を受けて後北条氏の北条氏綱と敵対し、1524年には品川港を勢力圏に置いた。さらに、安房の里見氏の里見義豊と同盟を結び、後北条氏との抗争を優位にすすめ、版図を武蔵国まで拡張させ、鎌倉をも勢力圏に置くようになった。 黒田によると、1525年までには出家していた記録があり、嫡子である武田大夫という人物に家督を譲っていた形跡があるという。この「武田大夫」について、黒田は系図で法名「全鑑」とされる人物である可能性を示唆している。 後、足利義明は北条氏綱との融和を打診するが、恕鑑はこれを拒絶した。里見氏の天文の内訌では里見義豊を支援したが、庶流の里見義堯に肩入れした一族もおり、死後の家中分裂の遠因を作った。 1534年に死去した。黒田によると、恕鑑とほぼ同時期に嫡子とみられる大夫も死去したとしている。 家督は庶長子とされる信隆が継いだが、家中は既に分裂しており、信隆と信応でそれぞれ争うこととなる。
※この「事蹟」の解説は、「真里谷恕鑑」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「真里谷恕鑑」の記事については、「真里谷恕鑑」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:24 UTC 版)
コンコ・テムルが史料上に現れるのはブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世からで、延祐5年(1318年)には「嘉王」に封ぜられている。 イェスン・テムル・カアン(泰定帝)の治世の泰定2年(1325年)においてコンコ・テムルは「嘉王」から「并王」へと改封された。翌泰定3年(1326年)には同じモンケ家のチェチェクトゥとともにカアンの元を訪れているが、この頃はモンケ・ウルス宗主たるチェチェクトゥの下位の王族として記録されている。 至元元年(1335年)、大元ウルスではウカート・カアン(順帝トゴン・テムル)を擁立し実権を握ったバヤンに対するクーデター計画が進行していた。このクーデター計画にコンコ・テムルも参加していたが、この計画はモンケ・ウルス宗主たるチェチェクトゥの密告によって瓦解した。同年、コンコ・テムルは流刑と決定したが、その後まもなく自殺してしまった。
※この「事蹟」の解説は、「コンコ・テムル」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「コンコ・テムル」の記事については、「コンコ・テムル」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 01:26 UTC 版)
足利泰氏の子・足利氏継が尾張国山田に住したといい、氏継の子の兼氏が、小笠原長久の娘と婚姻。孫の重氏が、尾張三郎と称し、小笠原氏と共に阿波国に移住し、阿波国大西城の城主となったという。さらに、重氏の子の俊氏は山田と改姓し、細川祐氏の娘と婚姻。1340年に阿波国美馬郡貞光に入部した。 一説には、初めの部分は明確ではないとしながら、清和天皇の曾孫・源満政の流れを汲む尾張の山田氏の出であるといい、小笠原氏と姻戚関係を結び、さらに細川氏とも縁組して、細川頼春が阿波国守護を得た際、随従して阿波国美馬郡貞光に入部した山田俊氏に始まるとしている(『系図研究の基礎知識-家系にみる日本の歴史-』より)。 山田俊氏の子山田重時は、美馬九郎右衛門と称し、民部少輔に任官され、細川頼之に仕えた。のちに麻殖郡飯尾村に移り、忌部神社の大宮司の麻殖氏の女婿となり、麻植重時と称したという。 累代、養父家の麻殖氏とともに阿波細川氏に仕え、麻植親氏から麻植重俊の代までほぼ志摩守を任官され、貞光・飯尾・森山村大字森藤など所領したが、阿波小笠原氏(三好氏)と婚姻関係が深くなり、また、戦国乱世の下克上によって三好氏が強勢となり、重時から8代のちの重俊は、三好氏の親族にして重臣の十河存保に仕えた。 しかし、重俊は、1579年に脇坂の戦いで討たれ、次代麻植重長(重俊の弟)も三好長治に属して中富川の戦いで討死し、さらに次代麻植成義(重長の子)は、十河存保の小姓をしていたが、後に主君・存保とは別に豊臣秀吉に臣従し、豊後戸次川の戦いで討ち死にした。3代に渡って戦で亡くなっている事からこの頃は大将格ではなく、中堅格の武家だった事が分かる。 また、成義の弟・麻植成経は、兄同様豊臣氏に仕え、1614年大坂冬の陣の在陣中大野主馬夜討が押し寄せた際、主馬を守る為に疵を受けたといい、1615年大坂夏の陣には、子の麻植成政と共に出陣したという。その後、戦いの中で生き長らえ、成政の弟の麻植重義の系統が、美馬郡森山地方で庄屋として幕末に至ったとしている。なお、末裔に麻植豊がいる。 分流としては、重時の6代後の麻植泰俊の子(一説に長男という)の麻植庄吉丈が阿波細川氏に仕え、勲功から貞光すつこ(現在の美馬郡つるぎ町貞光捨子)の所領を許され、岡田庄吉丈として岡田氏を起こして、やはりで庄屋として幕末に至っている。
※この「事蹟」の解説は、「麻植氏」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「麻植氏」の記事については、「麻植氏」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 02:57 UTC 版)
1813年に福建で生まれた丁克家は、1826年、13歳の時に台湾鹿港に移住し、父親の丁樸実と共に雑貨、海運店を経営し、丁克家が家業を継承した際に丁協源の称号を用いている。父親の丁樸実は晩年全盲となったが、丁克家がその父を大切に扱い、火災の時には背負って逃れたという故事が伝えられている。1873年に鹿港で逝去した。 1884年、丁克家の第六子である丁寿泉は進士に及第すると、亡父の孝行を顕彰する目的で牌坊を建立、同時に丁克家の位牌を祀り孝悌祠としている。 1996年、台湾の教育部は新たに『三十六孝』に丁克家を追加、台湾における道徳教育向上の教材として用いている。
※この「事蹟」の解説は、「丁克家」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「丁克家」の記事については、「丁克家」の概要を参照ください。
事蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/13 01:36 UTC 版)
「神戸具盛 (4代目当主)」の記事における「事蹟」の解説
神戸氏は関氏の一族であるが、早くから北畠家の影響下に置かれていた。神戸為盛は北畠家から妻を迎えていたが、男子に恵まれていないままであった。 具盛は京都相国寺に侍童として仕えていたが、神戸氏への影響力の強化を望む父に呼び戻され、為盛の養子に入り、家督を継いで当主となると澤城(神戸西城)主となる。のちに神戸城を築城して拠点を移した。 生家の北畠家の力を背景に、伊勢楠木氏(楠木正忠の嫡子楠木正具)や赤堀氏に娘を嫁がせ、北伊勢を中心に神戸氏の勢力を拡大させた。 子の第5代長盛・孫の第6代利盛の時代には神戸氏は北伊勢を代表する勢力の一つとして関氏や長野氏と並び称される勢力になったという。 戒名「後龍光寺殿一峯楽三大居士」。
※この「事蹟」の解説は、「神戸具盛 (4代目当主)」の解説の一部です。
「事蹟」を含む「神戸具盛 (4代目当主)」の記事については、「神戸具盛 (4代目当主)」の概要を参照ください。
「事蹟」の例文・使い方・用例・文例
- >> 「事蹟」を含む用語の索引
- 事蹟のページへのリンク