帝位継承戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 00:01 UTC 版)
モンケが四川において病死した後、次代のカーン位を巡ってモンケの弟であるクビライとアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が生じた。モンケが亡くなった頃、タガチャルは淮安方面で妹を嫁がせた漢人軍閥の有力者李璮とともに南宋に侵攻していたが、クビライとアリク・ブケの帝位争いを聞いてどちらに味方するか一時逡巡した。しかし、オッチギン王家に仕えるサルギスがタガチャルにクビライに味方すべしと進言したことをきっかけにクビライを推戴することを決定した。 中統元年(1260年)3月開平に集ったクビライ派の有力者の内、西道諸王の代表としてオゴデイ家のナリン・カダアンとチャガタイ家のアジキ、東道諸王の代表としてオッチギン家のタガチャルとカサル家のイェスンゲ、カチウン家のクラクル王、ベルグタイ王家のジャウドゥが出席してクリルタイを開催し、クビライをカーンに推戴した。西道諸王は出席している人数自体が少なく、出席している人物も各王家の庶流であることが多いため、「クビライ派」とは事実上タガチャルを中心とするモンゴル帝国の左翼部より成る集団であったと言える。 タガチャル率いる東道諸王軍隊はアリク・ブケとの戦いにおいてクビライ側の主力として活躍し、これに対する報償としてクビライは幾度も下賜品を与えた。中統二年に起こったシムルトゥ・ノールの戦いでタガチャルはアリク・ブケ軍の主力を破り、クビライ側の勝利を決定づけた。 帝位継承戦争後、タガチャルはクビライ擁立の殊勲者として遇され、クビライの治世の前半においてオッチギン王家は大元ウルス屈指の有力王家として繁栄した。タガチャルの死去年は不明であるが、至元15年(1278年)に起こったシリギの乱に関わったベルグタイ家のジャウドゥの処罰にタガチャルが関わったと『集史』に記されていること、至元10年までは『元史』にもタガチャルに関する記述が見られることなどから、至元15年前後に亡くなったものと推測されている。
※この「帝位継承戦争」の解説は、「タガチャル」の解説の一部です。
「帝位継承戦争」を含む「タガチャル」の記事については、「タガチャル」の概要を参照ください。
- 帝位継承戦争のページへのリンク