カサル家
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「カサル家」の解説
『元史』巻95歳賜一覧では「太祖弟搠只哈撒児大王淄川王位」として記録されている。 名称別名地域獲得年備考エルグネ・ハイラル河畔 ارگنه و کوکه ناوور و قیلار(『集史』) モンゴル高原 1206年 建国時の初封地 般陽路 淄州路/淄萊路 華北(ヒタイ) 1236年(丙申年) 丙申年分撥時に獲得 信州路 江南(マンジ) 1276年(至元13年) 江南分撥時に獲得
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カサル家
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「カサル家」の解説
『集史』「イェスゲイ・バートル紀」のカサル家条によるとこの頃の当主はシクドゥルで、「彼(シクドゥル)は後にオッチギン・ノヤンの一族出身のタガチャルの孫たちと同意し、彼等はクビライ・カアンに対して反逆を企てた」と記される。シクドゥル軍はナヤン軍とは行動を別にし、主に遼東・遼西方面でアヤチ率いる軍団と戦った。
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